FRBの金融政策と正念場を迎えた我が国の経済政策

 12月15日・16日のFOMCFRB政策金利であるFFレートをゼロ%〜0.25%にすることを決定した。ゼロ金利への移行は米国にとっては初めての経験であるが、今後は既に公表されているア)連邦エージェンシー債及びMBS証券の買取りをより進めていくこと、イ)来年の早期には資産担保証券融資制度(TALF)を利用して家計及び小規模ビジネスへの信用拡大を促進することを行っていくわけである。そして、ウ)長期国債買取りを検討するとのことである。
これらについて補足すると、ア)連邦エージェンシー債及びMBS証券を買い取ることは、これによって市場への流動性供与の拡大を図ることを目的としている。さらにイ)については、学資ローン、自動車ローン、クレジットカードローンを担保にした資産担保証券(ABS)の新規発行が急減した中にあって、投資家に対してFRBが融資を行うことでABSの流通を促進させ、ひいては上記の各種ローンを利用する家計・零細企業の事業者に対する資金繰りの支援を行うということだ。ア)およびイ)の政策については既に発表済みであり、今後政策の発動と規模拡大を図っていくということだろう。
 今回新たに検討対象として織り込まれたのは、ゼロ金利政策突入に伴って生じたウ)の長期国債買取りである。通常の金融緩和は短期の政策金利に働きかけることで金利の期間構造を経由して長期金利を下げることを目標とするわけだが、政策金利がゼロ%から0.25%に維持される場合にはこのような経路での金融緩和を行うことは出来ない。そこで長期国債FRBが買い取ることで国債価格を上げ、国債金利を下げるということにコミットしようというわけである。そしてマンキューが指摘するように*1、物価に対するレンジを明確化し、期待に働きかけることを織り込んでいくことが実施の際には必要だろう。
 今回FRBゼロ金利政策に踏み切った背景には、FOMCステートメント*2にもあるとおり、雇用環境、消費、投資、生産、金融市場の悪化が明らかであるという事実、今後とも経済の悪化が見込まれるという事実、そしてインフレ懸念が沈静化しているという事実、の三つがある。クルーグマンが“Getting out of this will require a lot of creativity, and maybe some luck too.”*3と語るように、バーナンキ議長はかつてデフレに陥った我が国に対しての提言と同じ政策を志向していくことだろう。それはまさに「a lot of creativity」を伴うものである。そして、我が国の不幸な経験を題材に進められてきた幾多の研究・知見が実効性を伴う形で、かつ想定した形で生かされるという「some luck」を期待したい。これには政治の協力・決断が不可欠であり、財政政策と金融政策の連携が必要であるところだ。さしあたってはビックスリーへの支援策を早期に決定することが急務である。
 さて、既に市場実勢ベースでは日米政策金利の逆転は生じていたわけだが、これで名実ともに日米の政策金利は逆転することになったわけである。この事実を反映して早速名目円ドルレートは88円台にまで急騰している。先日エントリしたとおり、円高の理由は「円の信認の拡大」などではなく、結局のところは我が国と貿易相手国とのマネーの量によって影響されているという当たり前の事実を反映していたのである。我が国の金融政策について「政策金利がゼロ近傍に近づいているため緩和余地は少ない」という議論も、今後公表されていくFRBの金融政策を目のあたりにすれば誤りであることが明らかになるだろう。
 現在の経済情勢を念頭に置きながら我が国の経済政策について考えてみると、まず直近の情報では戦後二番目の悪化度合いとなった日銀短観の結果が目に付く。この結果は本年9月以降から現在に至る急激な円高の進展は黙って耐え切れるようなものではなく、企業業績・雇用環境に急激なインパクトをもたらしていることを改めて認識させたわけである。さらに円高の進展は輸出企業のみならず、各産業においてあまねく波及しており、円高に伴う原材料価格低下効果といった要素はマクロレベルで見れば大きく寄与していないことも明らかになったわけだ。
 米国の経済政策を見ていくと政府とFRBが連携を保ちながら進められていることが各種報道からわかるところだが、我が国の場合には必ずしもそうは言いがたいように感じる。一つの要因は、腰が定まらない政府の態度である。元々奇妙な主張でありどこまでが真でどこまでが偽なのか皆目わからなかったのだが、最近になって麻生首相、与謝野大臣、中川大臣といった主要閣僚が金融緩和には効果があり、日銀にも更なる緩和を期待していると述べたとのことである。そして公明党においても日銀に緩和を要望する発言がなされた。漸く個人的な固定観念ではなく、ようやく現実を見据えるようになったということだろうが、経済政策に責任を持つ政府の立場から考えるとこのようなプレッシャーは唐突かつ遅きに失したとみなさざるをえない。そして、このような主要閣僚の発言は現下の経済情勢の悪化を日銀の責任にするような責任転嫁の弁に堕するのではないかという気もしてならない。確かに、現下の状況において金融緩和策は必須だが、政府として為すべきことは二次補正予算の早期成立であり、既に発表されている経済対策を迅速に実行に移すことである。
 さらに、このような形での日銀への圧力は、ゼロ金利政策量的緩和策への移行を多大な副作用があると主張しつつ、短観の結果を受けて即座に認識を転換する発言を行っている白川総裁にとっても正念場だろう。日銀の政策決定は日銀が自ら行っている統計指標の結果から得られる情報と親和性が高いことが過去の経緯から得られる事実である。日銀短観の悪化、国内企業物価指数の落ち込みと合わせて考えれば、更なる金融緩和を行う形になるのは通常の政策決定モードにおいても当然の反応だと思われる。本質的には日銀に原因があるのだが、外野からの圧力も相まって「too little,too late」がより明確な形で意識されるのは不幸な事態である。
 経済情勢の悪化に伴う総裁のコメントを読むにつけて、金融政策において日銀が念頭においていたフォワードルッキングという言葉の空虚さが改めて目につくところである。仮に白川総裁が自らの主張を「奴雁の哲学」のように捉えているのであれば、それは大きな勘違いではないだろうか。つまり、白川総裁にとっての「奴雁の哲学」は、私を含む市井の人間にとっては、『自らが設定した政策の制約条件を「真の制約」と捉えて、その中でオプションがないことに安住するために都合の良い哲学にしがみついている』と映っているのではないだろうか。円高の進展や金融機関の資金繰り悪化といった論点については流動性をより供与することが必要であることは言を待たないだろう。異常事態に陥った際には「a lot of creativity」を駆使することが必要だ。つまり、各国の緩和的経済政策の動きを外圧と見、責任転嫁の一端として捉えるのではなく、まさに我が国の喫緊の課題として主体的に捉え、過去の経験を生かしながら「a lot of creativity」を生かしていくことこそが求められるのだ。