高齢者は本当に弱者なのか?
小泉政権下で創設された後期高齢者医療制度の評判が芳しくないのは周知の事実である。政府はそれを見て取って名称を長寿医療制度と変更したが、名前を変えたといっても内実は同じであることには変わりはない。
中央公論8月号で原田泰氏がこの後期高齢者医療制度に関連して論説を展開しているが、氏の主張は真っ当なものである。かいつまんで内容を紹介するとこうである。まず原田氏は、後期高齢者医療制度の目的は高齢者を国民の他世代から切り離すことで、他世代とは段違いに高い医療費を減らすことであると論じる。高齢者の医療費の自己負担分は医療費の1割だが、他世代は3割負担である。当たり前の話だが、少子高齢化が進展すれば、医療費の自己負担分が少ない高齢者の比重が高まるわけだから、国全体の医療費負担は増加する。医療費負担の増加を是正する必要に気づいてもらうために敢えて高齢者を他世代から切り離したというわけだ。しかし後述するとおり、高齢者を他世代から切り離したといって高齢者の医療費を削減する機運が生じるわけではないことは明らかである。
では、高齢者の医療費負担を他世代と比較して安くするという制度はどのようにして始まったのか。原田氏は、それは美濃部都政の遺産であると論じる。美濃部氏が都知事に就任した67年〜79年の時代は高度成長期の終わりから安定成長期に入る時期である。当時の経済成長率は平均して5%を超えており、税収は増加の一途を辿っていた。美濃部氏は政治勢力としては左派であるが、高齢者の支持が少なかった左派にとって、医療費の自己負担を高齢者のみ安くするという制度の導入は、当時高齢者の割合が少ないことも相まって、格好の集票政策だったわけだ。
原田氏は医療費の自己負担分を年齢で優遇する現行制度は廃止すべきだと論じる。同感である。勿論、高齢者の医療費を優遇するのは訳があり、それは齢を重ねることで病気になる可能性、通院をやむなくされる可能性が高まるというものである。但し一方で、医療費の自己負担が低いことによる医療費の無駄使いといった側面もあるはずである。そして、大阪大学教授の大竹文雄氏が指摘するとおり、高齢者になるほど所得格差は広がるという事実もある。高齢者の中にも豊かな人は確実におり、年齢で医療費を区別する理由はないということだ。原田氏が言うとおり、高齢者は貧しく、治療を受ける回数も高いため、医療費の自己負担分を減らすべきだという議論には無理がある。就労しないという高齢者の特徴は割り引くとしても、日本の高齢者は平均で見る限り所得、消費、金融資産・住宅資産・土地資産といった側面でも現役世代と比較して豊かである。少なくとも豊かな高齢者は、年齢という差別を乗り越えて自立するべきであることは必定であろう。
さて、ここで先の「高齢者を他世代から切り離したといって高齢者の医療費を削減する機運が生じるわけではないことは明らかである。」の論点に戻ってくるわけだ。原田氏の主張は正論であり、私も同感なのだが、現実的な視点で考えると「年齢で医療費の自己負担を差別することは止めるべき」という機運が国民の太宗を占めるとは考えづらいことも事実である。それは今後少子高齢化が加速することからしても致し方ないことかもしれない。つまり、高齢者である人々が自分の医療費を上げることに反対であるのならば、高齢者の比重が高まっていく我が国にあって民主的な方法で高齢者の医療費を是正することは不可能であるからだ。
本日公表された経済財政白書では、昨今の社会保障に関する議論を踏まえつつ、高まる社会保障費の財源を消費税増税で賄うという議論を示唆したとのことだが、消費税増税で賄おうという議論は、殊に上記の議論を鑑みると次善の政策であるといわざるを得ない。なぜなら、医療費を確保するために行う消費税増税分のしわ寄せは高齢者にも等しく向けられ、その影響は低所得の高齢者に対してより大きなものになる可能性が高いためである。そして、現役世代の経済活力をも等しく阻害することになることにも着目すべきだろう。医療費の自己負担が一律となれば、消費税増税に伴う現役世代への経済活力への阻害といった状態は生じず、将来現役世代への負担増となったとしても、医療費の自己負担が世代間で異なるといった状況に比べれば、現役世代への影響は軽微となるだろう。
我が国にとって必要なのは、自らが属する世代の利益を際限なく追求するのではなく、国全体を考えた場合に各世代がより豊かに暮らしていくためにどうしたらよいのかといった視点である。そもそも医療を含む社会保障に多くを求めるのは筋違いである。年金でそれなりの暮らしが出来たのは、我が国の経済成長が着実に進展し、皆が豊かさを万遍なく享受できたと感じたことも一因だろう。
現状は残念ながら、世代の動向から全体を見通せるような単純な状況ではなく、経済成長率は1%台をさまよう時代である。そして、高齢化が進むという状況の大きな原因は団塊世代の存在だが、これらの人々が総じて多くの子を残さなかったという責任も一方で(当然ながら)存在するのだ。少子高齢化が進むということは、我が国の政治的意思決定のプロセスにおいて世代間の対立が色濃く反映されていくということを意味するのだろう。我々は「長期的には皆死んでしまう」のだから、現在の利益を優先すればよいという判断もあるのかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか。我が国では残念なことに冷徹な「正論」が見逃されてしまうことが多いが、「誰かが得をし誰かが損をする」ことが明白な状況においてこそ社会全体を考慮する「正論」は意味を持つのではなかろうか。現代はそんな「正論」が必要な時なのだ。