経済の持つ二面性とインフレーション
1.経済の持つ二面性とインフレーション
経済学における重要な関心事の一つその二面性・多義性である。例えば投資は総需要の一要素(投資需要)として存在する一方で、資本として蓄積し生産力、つまりは総供給の一要素として存在するわけである。同様の事実は、昨今話題になっているインフレーションの議論についても当てはまるのではなかろうか。以下、インフレーションを引き起こす要素の「二面性」に着目しながら、70年代の「狂乱物価」の状況と現代懸念されているインフレーションと実態経済の悪化の可能性、そして石油・穀物といった原材料価格高騰に対して我が国が行うべき政策について論じてみることにしたい。
2.「インフレーション」の二つの解釈とスタグフレーション
(1)スタグフレーションは生じるのか
インフレーションとは、個別財の価格変化を総合した一般物価が持続的に上昇していく様を指す。インフレーションは大まかに二つの状況によって生じると整理できるだろう。巷間言われるとおり、それは総需要が総供給を超過している場合(ディマンドプル)か、生産活動(供給活動)を行う場合のコストが高まることで生じる場合(コストプッシュ)である。
さて、昨今の石油・穀物価格の高騰が物価に与える影響を考えると、特にこれらの資源の太宗を輸入により賄っている我が国においてはコストプッシュ要因に基づくものと見ることが出来るだろう。石油・穀物価格の上昇は、これらを用いて財を生産する企業のコストを押し上げ、ひいてはその企業が生産した財の価格を押し上げる。財の価格の上昇は他財の価格上昇を誘発するかもしれず、価格上昇が広範囲にわたれば、物価自体も上昇し、インフレーションが顕在化するというわけだ。さらにこのようなコストプッシュのインフレーションで約束される財の数量は物価上昇前と比較して減少している可能性もあり得る。この点は、例えば食料品などで観察された状況−これまでの製品の数量を減らすことで価格高騰に対応するという状況−を考えると分かり易いだろう。コストプッシュにより全体として数量が削減された状況に一国全体として陥らざるを得ないのならば、物価は上昇するものの、その物価で約束される一国全体の供給量(=需要量)は減少してしまう。物価上昇下での総供給もしくは総需要の停滞、つまりスタグフレーションの到来である。但し、このようなスタグフレーションが一定期間持続するためには、石油・穀物価格の高騰分だけ製品価格として転嫁できる土壌が存在することが必要である。スタグフレーションが生じる前段階において、所得の伸びが活発でありかつ貯蓄も十分であれば家計は少々の価格転嫁にも対処できるだろう。そうすれば物価上昇と実態経済の停滞の両面の度合いがより強まることでスタグフレーションは深刻化し、さらに長期化する可能性はある。
我が国の経済の現状を見ていくと、国内の付加価値に関連する物価指標であるGDPデフレータは輸入価格の高騰により伸び率は低下している。この背景には家計の所得が殆ど伸びない中で外生的な要因たる輸入財の高騰が、国内財の支出を減らしていることが背景にある。消費者物価指数は輸入財がカウントされるために、CPIコアも1%台の伸びとなっている。しかし、エネルギー・食糧を除いた消費者物価指数で見ればCPIの伸びはほぼゼロ近傍であり、CPIに伴う上方バイアスを鑑みれば依然としてマイルドなデフレである。加えて、最近では景気の減速基調が鮮明になりつつある状況でもある。我が国が「失われた十年」を経て景気回復期に入っていたといってもその回復は力強いものではないこともあわせて考慮すれば、現状は「そもそも内需は盛り上がりに欠けており、仮に輸入物価上昇に伴う国内物価上昇を許容できるとしてもその余地は限られている」と看做すしかない状況であろう。このように見ていけば物価高と実態経済悪化というスタグフレーションが生じると看做すのは無理があり、現在生じている石油・穀物価格の高騰による物価上昇という状況は、相対価格の調整が緩慢であることによって一時的に生じたものと考えられる。総需要の弱さを考えれば、寧ろ、輸入財の高騰が続く中でそれを価格転嫁として反映することも出来ず、企業利益は低下し、賃金は抑えられ、さらに需要は停滞する、といった状況こそ現在懸念すべき点なのだろう。
(2)なぜ70年代の「狂乱物価」はスタグフレーションを生み出したのか
現代の石油・穀物価格の高騰の際にマスコミ等で引き合いにだされるのが、70年代前半期(72年〜74年)における「狂乱物価」の経験である。この「狂乱物価」において、日本経済は対前年同期比で20%以上ものインフレーションを経験した。そして74年には戦後初となるマイナス成長とインフレーションの同時的進行という事態が生じたのである。この「狂乱物価」の進展の過程においては賃金の高騰と第一次石油ショックに伴う石油価格高騰の二つの要素が影響したことが知られている。賃金の上昇は家計所得の増加を通じて需要増に繋がり、一方で企業のコスト増として作用しつつ、全体としてディマンドプルのインフレーションを生み出した。73年秋に生じた第一次石油ショックは、コストプッシュとして作用し、インフレを深刻化させたのである。
では、なぜ二つのインフレーションから悪夢のようなスタグフレーションが生じたのだろうか。この答えは、フリードマンの有名な言葉「物価はいついかなる時でも貨幣的現象である」という指摘に密接に関わっている。つまり、当時の我が国の金融政策においては1971年から73年末にかけてマネタリーベースの急激な拡大(最盛期には前年同期比で40%の規模)があり、それが74年初めから年末にかけて急激な縮小(40%程度→17%程度)をしたという事実である。この金融政策の転換と、「狂乱物価」が進む過程の中で、インフレーションの進展を支えた要因が変化したこと、つまり金融政策の転換と同時期に生じた石油価格の上昇が「駄目押し」として作用したことがスタグフレーションを生じさせたのである。
もう少し詳しくみていこう。「駄目押し」の内容はこうである。まず、72年末から顕在化したインフレーションは初期において賃金上昇という「二面性」を持った要素により生じていた。これはディマンドプルとコストプッシュの両面に働きつつ、全体としてはディマンドプルの形で実態経済の拡大と持続的な物価上昇を引き起こしていたわけである。そしてこの時期のマネタリーベースは急激な拡大を示しており、賃金上昇を容認するだけの貨幣供給がなされていたわけである。以上の状況の下で、73年秋口から石油ショックが生じることになるが、石油ショックが最盛期に入る74年に入るとマネタリーベースは急減していく。石油ショックの影響は賃金上昇の影響に上乗せされる形で物価に影響するが、このタイミングでマネタリーベースの引締めがなされたことで、石油価格高騰の影響が十分に転嫁されず、生産・投資の低迷、失業率の上昇という状況が生じたのである。つまり、賃金の上昇が金融緩和策と相まって内需の増加を孕みつつ物価上昇を成立させた中にあって、コストプッシュとしての側面を持つ石油価格の高騰が上乗せされ、タイミング悪く金融引締め策が発動されたことが、石油価格の高騰を広範に容認するだけの物価上昇を引き起こさなかったことを通じて実態経済の悪化要因として作用した。これがインフレーションと実態経済の悪化を両立させるスタグフレーションをもたらしたのだ。
3.我が国にとって今どのような政策が必要か
(1)狂乱物価の経験をどう評価するか
70年代の「狂乱物価」の経験が現代にもたらした教訓は、金融政策の失敗である。
「狂乱物価」がピークに達した74年においては、金融引締め策によりまず物価上昇を沈静化させるという判断は致し方なかったのかもしれない。当時の福田赳夫大蔵大臣は、物価鎮静化のためには実態経済の一時的悪化も止む無しとする「全治三年」を論じたが、この判断は「狂乱物価」がピークに達した74年時点では致し方なかったにせよ、賃金上昇を主因とし、卸売物価の伸びが本格化していなかった73年までのインフレーションの段階−石油ショックが発生する前の段階−で早期に引締め策に転じていれば、まさにテキストブック通りの展開−景気過熱によるインフレーションを沈静化させるための金融引締め策の適用による経済安定化の実現−をもたらしていたのだろう。
(2)求められる経済政策
現在、特に消費者物価指数の上昇という形で顕在化しているインフレーションは、石油・穀物等の原材料価格の世界的な上昇に基づくものである。これは70年代前半のスタグフレーションの経験に即して言えば、「駄目押し」としての石油ショック−コストプッシュ要因としてのインフレーションをもたらす要因−に相当するものだろう。そしてこの石油・穀物価格の世界的な上昇は、サブプライムローン問題に端を発する世界経済の成長減速とも相まって我が国の実態経済にマイナスの影響を与えているのは明らかである。
「狂乱物価」の経験から、物価の進展に対しては金融引締めであり、今後我が国は金融引締め策(金利正常化)を採用すべきであるという議論がなされているが、これは以上で敷衍したとおり「狂乱物価」の表層のみを捉えた議論である。繰返しになるが、「狂乱物価」はまず賃金上昇を主体とするコストプッシュ・ディマンドプルの両面を兼ね備えた形として進展しつつ全体として実態経済の拡大とインフレが並存するディマンドプル型のインフレであり、駄目押しとしてコストプッシュ要因としての石油価格高騰が生じた段階で金融引締め策が発動されたことが、一定のタイムラグを通じて物価上昇という状態を持続させる一方で実態経済の悪化を加速させたのだ。コストプッシュのみの要因である現下のインフレーションに対処するには、それが実態経済の悪化を伴うものである以上、答えは明らかである。つまり金融緩和策である。
金融緩和策は、内需を喚起するとともに、石油・穀物価格の高騰を容認し、相対価格の調整を進めるという効果を通じて我が国の経済を下支えする効果を持つ。さらに石油・穀物価格の高騰がサブプライムローン問題への対処策としての米国の金融緩和、その結果としてのドル安に拠るというのであれば、我が国の金融緩和はドル高に多少なりとも寄与することで国際的な価格高騰の一助となるともいえるのではないだろうか。
我が国の中央銀行は、各種リスクを考慮しながら現状維持の決定を繰り返しているところである。政府が公表する月例経済報告では現状かろうじて「踊り場」との判断がなされているが、この判断は雇用や消費の判断が下方修正されていないことに依っている。消費者態度指数等を見る限り消費マインドは減少傾向にあり、輸入品を含み・かつ消費者が直面する物価である消費者物価指数が上昇する中にあっては実質所得の減少(購買力の低下)が進む見込みが高い。とすると、近い将来、月例経済報告においても「踊り場」判断は下方修正される公算が強いのではなかろうか。ここ数ヶ月繰り返されてきた景況判断の下方修正がさらに続き、しぶしぶ金融緩和に踏み切るという選択肢・可能性ほど愚かしいものはないだろう。物価の変化がどのような要因に基づいて生じているかを把握した上で、早期に適切な政策を講じることこそ今求められている点ではなかろうか。