小林慶一郎「市場経済は目的か手段か」(後編)を読む

 (前編)では小林氏が小泉政権を「システムとしての市場経済を始めて本格的に目的とした」政権として好意的に評価した点について批判した。(後編)では市場経済を重視する視点(市場主義)を追求することによって生じるであろう弊害(格差問題)をいかに乗り越えていくのか、市場の不完全さを乗り越えていく過程で何を目指すべきなのかが論じられている。

 まず、小林氏は格差拡大が市場主義的な改革を推し進めた事の結果であるのかどうかはともかくとして、格差拡大が広がっているのであれば小泉政権以降の政権は格差拡大の広がりを食い止めるような施策を行う必要があるだろう、と論じる。小林氏が言うとおり低所得者層への社会保障政策を手厚くしたり、再チャレンジのチャンスを拡大する、雇用者の待遇格差の是正、能力開発の機会を与える・・といった施策がありえる事には同意する。

 ただ、これらの政策は基本的に市場で成立した果実(富)の再分配を志向するものであり、「市場機構を強固にする」こととは一致しない。経済学的には一旦成立したパレート効率的な配分を公正な配分として再配分するには再配分を受け持つ組織(政府)が各人が受け取るべき配分額に関する情報(価格)を正確に把握しておく必要がある。但し市場機構は計画経済で無いため、これらの情報をプレイヤーの一人である再配分組織が分権的に得ることは不可能に近いことが知られている。恐らく過去の経験が示す通り、「既得権者と弱者との共謀」が生じる可能性が大きいのではないか。
 
 小林氏の議論の論点ではふれられていないが、適切なマクロ経済政策の実行が格差是正に繋がるとしたら「既得権者と弱者との共謀」の可能性をはらむ政策手段をとることを控えることが可能なのではないか。自分ならば適切なマクロ経済政策の実行により市場機能の効率性と社会としての公平性がはかられる可能性を追求したい、と思う。その意味で、池田勇人の所得倍増政策の成功といった過去の経験が顧みられないのだろうかと感じる。
 
 小林氏は理念としての「自由」に対するコミットメントの徹底を通じた新しい公共倫理を生み出すという今後の新しい方向性を提示している。文中でふれられている竹田青嗣氏の「自由の相互承認」という考えはアダムスミスが指摘したシンパシーの必要性にも重なる部分はあり、自由と倫理・道徳との相互補完的な考えを意味していると読み取れた。蓋し問題なのは、この先小泉改革を徹底することで「自由の相互承認」、各人のシンパシーが醸成されるのかどうかという点だ。やや皮肉っぽく言えば、小泉改革の徹底は「放縦への道」を加速させるのではと思うのだがどうだろうか。