田中秀臣『経済政策を歴史に学ぶ』を読む。

 本書は1990年代初めからの「失われた十数年」を経て一息ついた日本経済の今後を考える視座として、過去の経済思想、経済学の歴史といった過去の経済学が残した遺産を適用するという試みを行った本である。
 本書の概略を先取りしてみると、格差社会および小泉政権の経済政策を総括する第一章、第二章、政府対市場という二元論的ポピュリズムを廃する思想がエコノミストの間でなぜ出てこないのかという問題意識から我が国エコノミストの現状と日本的な構造改革主義の源流について考察する第三章、第四章、長期停滞を考察する経済学としてのリフレ派(期待の経済学)の系譜を扱った第五章、第六章、そして最後にリフレーションによる対抗ナショナリズムの緩和の必要性を論じている。以下、各章について興味深く感じた点を中心にみていくことにする*1

 第一章は「格差社会」についての考察である。氏は現在言われている「格差拡大」の真因は本来短期的な問題である筈の景気循環的問題に基づいており、誤った経済政策が長期に渡って続けられたことが原因であると論じる。この見立てに従えば、正しいマクロ経済政策を行えば「格差拡大」のかなりの部分は解消される筈であり、同書のような原因−結果を見通した上での正しい経済政策がなされることを期待したいところである。石橋湛山の言葉ではないが「根本病」に侵されるあまり、現状のシステムを根本的に変えるまで何もしないというのではなく、政策課題の原因・結果を把握した上で、個別課題に対し最適な政策を割り当てていくという視点が必要である。望ましい景気対策を行った上でなお残存しうると思われる課題としては、「失われた十数年」において雇用されなかった若年層をどう救うのかという点だが、こちらはある程度の経済成長を担保した上で長期的な視野を持ちつつ制度的な政策にて手当てしていくことが必要だろう。

 第二章は、「格差拡大」をもたらした小泉政権の評価について論じられている。小泉政権下で経済はなぜ改善したのかという問いに対する氏の解答は、量的緩和策と財務省が行った円安介入策がたまたま重なり相互に補完しあったという「なし崩しのレジーム転換」が生じたというものである。つまり小泉政権で意図された構造改革は景気回復にはなんら寄与しなかったのだ。小泉政権の5年間の中で印象的な政策は「郵政民営化」である。「民間に出来るものは民間に」という方針そのものは正しい。だが、財政再建財政投融資改革の流れの中で主張された「公的部門から民間部門へ流れていた資金を民間部門へ」という目的の中で「郵政民営化」を位置づける事は、財政投融資改革後に郵貯が市場システムに則る形で国債を中心に運営されているという事実の中では「新たな非効率」をもたらすことになる。小泉政権は「構造改革なくして経済成長なし」と謳ったが、実態は構造改革無し、そして経済政策無しという無い無いづくしの下での経済成長だったのだ。つまり政府の役割の不在である。この弊害は第一章で言われる格差拡大にもフィードバックされていくが、本書では人間的価値の回復のために市場と政府との適切な役割を見つけ出すという「第三の道」が提唱されている。この第三の道を具体化していくには様々な論点があると思われるが、自分は市場システムとマクロ経済政策との連携、そしてマクロ経済政策の中でも財政政策と金融政策の協調の必要性を訴えていると理解した。

 第三章では、政権の中枢に浸透しつつあるように見える我が国のエコノミストの実像を探っている。第三章では、我が国学界における根強い「経済学批判」、そして理論モデルの構築が先行していること、サラリーマン根性に満ち満ちた官庁・企業エコノミストの現状といった指摘には首是しつつ読んだ。本気で戯言を述べれば、構造改革が必要なのは日本経済ではなくエコノミストの現状に対してなのだろう。
 第四章は、「失われた十数年」においても経済論壇をにぎわせた「構造改革主義」なるものの源流を探っている。「構造改革」とはそもそも市場機構を有効に作用させる目的でなされるものであり、それ自体は受動的な性格を有する点にまず注意すべきである。その上で「構造改革主義」とは、長期的経済停滞の主要因を企業の投資機会の枯渇、消費の飽和といった構造的要因から生じたとみなし、財政・金融政策の効果に対して懐疑的なスタンスを取るというものと整理できる。構造改革主義に基づく処方箋は清算主義にも繋がる非効率部門の自然的治癒、消費飽和を解消するような新産業の創出ということになるが、本書では以上の主張の源流を笠信太郎三木清都留重人高田保馬西部邁村上泰亮といった経済学者の議論を中心に跡付けている。笠信太郎の思想に潜む国際競争力向上のための企業の利益圧縮(結果としての実物資本への再投資)とその方策としてのデフレーション(現代風に言えば「良いデフレ」論)の必要性への認識、笠信太郎三木清西部邁村上泰亮の中に潜むシュペングラーの「西洋の没落」で議論されている文化的相対主義を乗り越える方策としての官僚への信頼、そして都留重人の中に潜む金融政策への低評価、そしてそのことが大恐慌戦争解決論の萌芽へと繋がっていくという点を興味深く読んだ。また四章の最後の構造改革主義の終着駅は特権的官僚および彼らの望む「全人的テクノクラート」への信頼であり、エコノミストを代表とする専門家の「専門知」を否定する一方で自らの「専門知」には超越的な特権を与えている、というくだりは説得力がある。

 第五章、第六章は最も興味深く読んだ箇所である。第五章は、「失われた十数年」における経済論壇のもう一つの議論の流れである、期待の経済学(リフレの経済学)の系譜を探っている。本章で登場するのはヴィクセル、ケインズ、そして鬼頭仁三郎、高橋亀吉である。ヴィクセル以前の古典的な経済学では、貨幣市場と財市場との二分法(貨幣ヴェール観)が前提とされていた。この理解に従えば、貨幣水準の変化は財市場の需給変化とは無縁となる。ヴィクセルは貨幣的要因が実態経済に影響を与えるとして議論を行ったが、この貨幣市場と財市場の二つを結びつける概念が「自然利子率」*2と「市場利子率」*3であり、両者が一致しないことが財市場の不均衡を生み、さらに貨幣市場にも影響を与えると理論化したわけである。詳細は本書をお読みいただきたいが、現代的に「自然利子率」を「均衡実質利子率」、市場利子率を「市場実質利子率」と読み替えた上でこの二つの利子率の差を考えると、それは「インフレ期待」であることがわかる。経済において二つの利子率に乖離が生じている場合、それを一致させるためには?「均衡実質利子率」を調整すること、?「インフレ期待」を操作すること、の二つの方策が考えられるが、?の路線に属するのが「構造改革主義」であり、?の路線に属するのが「期待の経済学」であるという整理はわかりやすい。
 ヴィクセルの理論を雇用市場にまで引き伸ばす形で発展させたのがケインズの「一般理論」であるが、鬼頭仁三郎はこのケインズの「一般理論」と格闘した我が国の経済学者である。鬼頭はケインズの「一般理論」における利子率は、本来は単一なものではなく短期と長期という区分がなされるものであり、その背後には裁定と投機という「期待」を動因としたメカニズムが関わっていると指摘した。この流れは第六章の議論に繋がっていく。さらに現在の「期待の経済学」を理解する上で必要な概念である「レジーム転換」についてその源流を高橋亀吉に求めている。同書によれば、高橋は「構造的要因」と「循環的要因」の峻別、それぞれに対応したレジーム転換という処方箋を描いた。低インフレの確保が構造改革を推進するという指摘は第二章での「第三の道」、そして不毛な二元論を乗り越える視点に繋がるのだろう。第六章は1990年代以降の経済論戦の中にあって「期待の経済学」に基づく政策議論がどのようになされたのかを論じている。金融政策の重要性が認識される中で日銀の役割は大きい。インフレターゲットに基づく「ルールの中での裁量政策」、そして適正な経済情勢判断の下での政府と日銀との政策連携、市場主義に陥らず、市場と政府との適正な役割分担の把握により「経済政策の不在」という現状をいかに乗り越えるか、といった点が今後重要だろうと感じながら読んだ。
 最後に、終わりにかえてとして議論される「東北アジア共同体」の主張の中にある、森嶋*4の「日本一国という利己的な経済動機でなく、東北アジア共同体という「公益」に経済政策の軸足を移すことが必要だ」との思想的背景の意味はFTA/EPAの流れが進む我が国の中にあってよくよく考慮する必要がある論点だろう。経済政策として他国との交易を円滑にする貿易自由化、投資・労働の移動の促進というFTA/EPAには私は賛成だが、これがEUのように共同通貨の導入といったより強固な経済共同体に発展する場合には、我が国の経済政策の自由度は失われ、「アジアのために自国の経済が犠牲になる」という事態にならないだろうか。戦前の我が国の経済的停滞の解決策を最終的には他国を取り込むことに求めたこと、その中での「対抗ナショナリズム」の勃興という過去の事実が、アジア共同体構想の一方で広がる近隣国との軋轢、そして社会の不安定さという現代を取り巻く状況と奇妙に符号する。同書の中にある石橋湛山の小国主義と国内経済の安定を重視する視座の中に今後の経済政策の軸足を置くことこそ、歴史に学ぶということなのだろう。

 以上、各章の中で印象的な点を纏めてみたが、これらから言えることは非常に多種多様の議論が本書の中で凝縮されているということである。ただし、それぞれの議論が散漫な形で終止していないのは、各章間のつながりがきちんと明記されているからだろう。そして本書で提示されている話題は、本書の言葉を借りると、一つの「地下水脈」、つまりリフレーションによる経済政策の必要性、そして構造改革主義というものに対する徹底した批判によって貫かれているためであろう。現代の政策論議を見ているとあまりにも自らの「歴史」を忘れた議論が目立つ。経済政策に限らず「歴史に学ぶ」ことの重要性が言われて久しいが、現在の経済政策を議論し次代への展望を描く際に本書は良い道標になるだろう。


※昨日エントリのものを少し修正し、再度アップしました。ご容赦ください。

*1:長文につきご容赦ください

*2:貯蓄と投資の均等をもたらす利子率

*3:貸出市場で設定される利子率

*4:関係ないですが氏の日本没落論はシュンペータの資本主義没落論の「成功ゆえに没落する」のモチーフを適用したものと思ってましたが・・どうなんでしょう。