フィリップスカーブに関する「二つの理解」

 フィリップスカーブとは、物価上昇率と失業率との間に右下がりの関係があるというフィリップスの観察結果に依存する理論であり、短期のフィリップスカーブと長期のフィリップスカーブに関する仮説や最近ではAkerofらにより、単なる統計的事実ではなく理論的前提から導出しうる関係として整理がなされている。以下、フィリップスカーブに関する「二つの理解」を紹介しつつ、関連して幾つかの論点に関する感想を述べることにしよう。

1.フィリップスカーブに関する「一つ目の理解」
 フィリップスカーブを考えるにあたって、「短期」のフィリップスカーブは右下がりだが、「長期」のフィリップスカーブは垂直であるというおなじみの解釈がある。我が国の構造的失業率が90年以降の大停滞期において上昇し、4%台に至ったという推計結果に信頼を置く場合、我が国の消費者物価指数上昇率と失業率の関係から、いかなる解釈が可能なのだろうか。
 以下の図表は北浦・原田・坂村・篠原(2003)*1から、NAIRU型の長期のフィリップスカーブが成立していると考えた場合の解釈を説明している図表である。


出所:北浦・原田・坂村・篠原(2003)

 図表中の消費者物価指数上昇率と失業率は1980年第1四半期以降の値がプロットされているが、80年代を通じてみた場合、大まかに右下がりの関係が成立しているようにも見える。北浦・原田・坂村・篠原(2003)では、適応期待の仮説に基づいたNAIRU型フィリップスカーブを推計してみると、わが国では適応期待仮説に基づくNAIRU型フィリップスカーブは成立していないが、一定のインフレ期待が形成されている可能性はあり、その場合には長期には物価上昇率と失業率のトレードオフは存在せず、短期的には期待物価上昇率需給ギャップ、供給ショックが物価上昇率を説明するという関係はあると解釈することも可能である。これは、長期のフィリップスカーブが垂直線、短期のフィリップスカーブが点線で表されているとみるものである。年を通じて長期フィリップスカーブは右にシフトしていることから構造的失業率は年々拡大しており、短期フィリップスカーブは右下がりであるものの、水平に近づいている、という形にみるわけである。
 しかしこの解釈は構造的失業率の水準が4%台、5%台と上昇しているということが事実でない場合、破綻してしまう。北浦・原田・坂村・篠原(2003)やこちら*2では我が国のデータを当てはめると構造的失業率の水準は2%〜3%となることを論証しており、上記の「一つ目の理解」に基づくフィリップスカーブの解釈は誤りであることを示している。

2.フィリップスカーブに関する「二つ目の理解」
 フィリップスカーブに関する「一つ目の理解」は我が国のデータを元にして実証分析を行ってみると誤りであることを見たが、「二つ目の理解」はAkerlof, Dickens and Perry(1996)に基づくものである。これは、長期のフィリップスカーブが垂直ではなく、インフレ率がゼロ近傍及びマイナスとなった場合には大きく失業率が上昇するという非線形の関係にあることを確率的一般均衡モデルのシミュレーションにより論証している。  
Akerlof, Dickens and Perry(1996)*3の結論は幾つかの仮定*4の下で、マイナスのショックを受けて賃金調整の制約(賃金の下方硬直性)を受けることとなる企業の割合は、インフレ率がゼロ近傍及びマイナスの下では大幅に上昇するため、これらの企業が雇用調整を行う結果として、インフレ率の低下が失業の増大につながると論じている。
以下の図表は長期のフィリップスカーブがAkerlof, Dickens and Perry(1996)の含意に即して、垂直ではなく非線形であると考えた場合である。「一つ目の理解」とは異なり、長期フィリップスカーブが非線形であると看做した際には、構造的失業率は長期フィリップスカーブの垂直部分(図中では構造的失業率のシフトを考慮)となり、物価上昇率の低下が賃金の下方硬直性の下での企業行動を繁栄して失業率を上昇させるという風にみるわけである。北浦・原田・坂村・篠原(2003)やこちら*5による構造的失業率の水準は2%〜3%であることを考慮に入れれば、構造的失業率は2%〜3%のあたりで垂直線として成立している。そして物価上昇率がゼロ近傍及びマイナスである場合には労働市場の調整能力が低下するため、失業率を構造失業率の水準以上に押し上げていることになり、現在の物価上昇率と失業率の動きはAkarlofらの長期のフィリップスカーブに沿った動きを示していることになる。


出所:北浦・原田・坂村・篠原(2003)

3.我が国の物価上昇率・失業率の現状に対応した「フィリップスカーブの理解」
 以上、フィリップスカーブに関する代替的な二つの見方について、我が国の構造失業率の計測結果と関連付けつつ敷衍した。
 「一つ目の理解」は、長期フィリップスカーブが垂直であり、短期フィリップスカーブは右下がりの曲線であるとするものである。この理解に即して我が国の物価上昇率及び失業率のデータを眺めると、長期フィリップスカーブは90年代を通じて右方にシフトしつつ、短期フィリップスカーブは水平に近づくという解釈が可能である。但し、我が国のデータを当てはめて推計を行った場合、構造的失業率の水準は2%〜3%の水準に留まっており、90年代以降の大停滞期を通じた失業率の悪化に伴って構造失業率がシフトしていたという解釈は妥当ではない。
又、短期フィリップスカーブが水平に近づいているという事実は先進諸国でも観察されるところである。短期フィリップスカーブが水平に近づくという事実の解釈は金融政策の信頼性が高まった等といった解釈がなされているが、この事実から  「物価変化は実態経済(景気)に影響しない」といった理解は先進各国ではなされていない。又、重要な点は先進諸国はマイルドなインフレの下でこれらの関係が成立しているのに対して、我が国はゼロ近傍及びマイナスのインフレの下で成立している点である。つまり我が国の物価水準を鑑みると、先進諸国で観察されている短期フィリップスカーブについての解釈と同様の解釈を与えることは誤りである。
 では我が国の失業率、物価上昇率の関係を考えるにあたりどのような解釈が正当といえるのだろうか。正しい理解はフィリップスカーブに関する「二つ目の理解」である。我が国の構造的失業率の推計結果や我が国が90年代後半以降デフレに陥っていた事実から判断すると、Akerlof, Dickens and Perry(1996)で示されているように、物価上昇率がゼロ近傍及びデフレ下では長期フィリップスカーブが緩やかな右下がりとなるような図式が正しいといえるのではないだろうか。繰り返しになるが、Akerlof, Dickens and Perry(1996)では、物価上昇率がゼロ近傍及びデフレに陥った場合、労働市場の調整能力が低下するため失業率が大きく上昇すると主張している。これは、我が国において「物価変化が実態経済(景気)に影響を及ぼしている」ことを示しており、尚且つ我が国のデータを適用した構造的失業率の推計結果とも整合的なのだ。

*1:「構造的失業とデフレーション−フィリップス・カーブ、UV分析、オークン法則−」、フィナンシャルレビュー

*2:http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20070607/p3

*3:"The Macroeconomics of Low Inflation",Brookings Papers on Economic Activity, No.1.

*4:a.企業は独占的行動をとる、b.各企業は同一的なショックではなく、様々な非対称的なショックを受けていること、c.企業は連続して赤字に陥らない限り名目賃金の切り下げを行わない、等。

*5:注2と同じ