世界的な対外不均衡の拡大、資源価格高騰と我が国のデフレ(その3)

4.物価変化の要因に関する実証研究
(1)物価変化の要因に関する実証研究の例

 (その2)では物価の持つマネーとしての側面(マネーサプライとマネーの需要に関する恒等式)から、物価変化に影響を及ぼす要素は、ア)マネーサプライの伸び、イ)実質GDP成長率、ウ)マネーの需要(流動性選好)の伸びの三つとして整理でき、我が国の長期停滞期においてはマネーサプライの伸びが実質成長率と比較してわずかに留まったこと、マネーへの需要が98年〜02年において特に大きかったことがデフレをもたらした点を指摘した。
 マネーに関する恒等式は、マーシャルのケンブリッジ方程式を示している。但し、(その2)の議論は物価がマネーサプライの大小によるという貨幣数量説を前提としたものではない。その理由は、貨幣数量説が流動性選好(マーシャルのk)や実質GDP成長率が安定的に推移することを前提としているのに対して、(その2)の議論は、流動性選好や実質GDP成長率が不安定であることを前提としているからだ。以下、マネーに関するケンブリッジ方程式と既存の標準的な経済理論との関連性について敷衍した後、「失われた十数年」を対象とした物価変化に影響を与える要因についての実証研究を紹介することにしたい。
 まず、(その2)でみた(2)式は物価のマネーとしての側面を表した式である。再掲すると以下のとおりである。

P(物価水準)の変化率=M(マネーサプライ)の変化率−実質GDP成長率−k(マネーの需要の度合い)の変化率・・・(2)

 この関係式はマネーサプライ、実質GDP成長率、マネーの需要の度合い、といった三つの変数が各々どのようにして決まるのか、そしてこの三つの変数の相互関係を考慮していないという意味で不十分である。
原田泰・中田一良(2003)*1では、標準的な経済理論(IS-LM,AS-AD)から物価決定に影響を与える変数を特定化した上で、実証分析(単位根検定、グレンジャー因果性、VARモデルの推定)を行っている。原田・中田(2003)における物価水準の決定式は以下のとおりであり、物価は、名目貨幣残高(マネーサプライ)、政府支出、名目金利、期待物価上昇率GDPギャップ、名目賃金、輸入物価*2*3実質GDPの6つの変数によって定まることになる。

P(コアCPI)=F(M、G、PM、R、Pe-P、Y-Yf、W、Y)
M、名目貨幣残高(M2+CD)、G:名目公的固定資本形成、PM:輸入価格、R:コールレート、Pe:期待物価上昇率(期待卸売物価指数)、Y-Yf:失業率(GDPギャップの代理変数)、W:時間当たり名目賃金(所定内給与)

 原田・中田(2003)の計測結果を簡単にみていくことにしよう。グレンジャー因果性検定からは、ア)消費者物価指数に影響を与える変数は、期待卸売物価上昇率と失業率である、イ)期待卸売物価上昇率に影響を与える変数は、マネーサプライ、輸入物価である、ウ)失業率に影響を与える変数は、期待卸売物価上昇率消費者物価指数、賃金である、という関係が成立していると報告されている。
 さらに6つの変数についてVARモデルを作成して各変数に1%のショックを与えた場合の消費者物価指数への影響を分析した結果(10期累積)をみると、失業率、マネーサプライ、期待卸売物価指数、といった変数が物価変化に影響を与えていることがわかる。さらに、貸出は銀行貸出しを、過剰債務は不良債権の程度を示す代理変数として用いられているが、銀行貸出しを上昇させると物価は上昇するが、過剰債務の増加は物価にほぼ影響しないとの結果になっている点や、他の変数が物価に影響を与える程度は10期累積でみても0.1%を下回る規模であることも興味深い。


注1:図表の値は、各変数を1%変化させた場合のコアCPIに与える影響(10期累積値)を示す。
注2:変数の順番はVARモデルを推計する際の配置を意味している。
注3:表9の値は、基本モデルの6変数に加えて、貸出及び過剰債務を変数として追加したケースを示す。
出所:原田・中田(2003)

 もう一つ、物価変化に関する興味深い実証研究を敷衍してみよう。原田・中田(2003)では、物価としてコアCPIのみが対象となっていたが、大西茂樹(2002)*4では、コアCPI、GDPデフレータ、国内卸売物価指数の三種類の物価指数について単位根検定、グレンジャー因果性検定、VARモデルによる計測を行っている。
 大西(2002)の結果によれば、グレンジャー因果性検定の結果からGDPデフレータに影響を与える変数は、名目公的資本形成、コールレート、M2+CD、失業率(GDPギャップの代理変数)、コアCPIに影響を与える変数は、M2+CD、輸入物価、失業率、国内卸売物価に影響を与える変数は、名目公的資本形成、輸入価格であることが指摘されている。以上から、財政政策(名目公的資本形成)はGDPデフレータ、国内卸売物価に影響し、金融政策(コールレート及びM23+CD)はGDPデフレータ及び消費者物価指数に影響を及ぼすことになる*5
 大西(2002)における名目公的資本形成、コールレート、マネーサプライ、輸入物価、完全失業率の5つの変数を1%上昇させた際の物価に与える影響は以下の図表だが、名目公的資本形成といった財政政策や輸入物価といった海外要因は物価変化に殆ど影響を与えないことがわかる。又、完全失業率の1%押し上げはGDPデフレータを累積で0.3%減少させるが、消費者物価指数や国内卸売物価指数への影響はわずかであることもわかる。これはGDPデフレータが国内財をターゲットとしており、完全失業率GDPギャップの代理変数として理解できることからも納得がいく。最後にマネーサプライであるが、5つの変数の中で最も大きなインパクトを消費者物価指数GDPデフレータに与えることがわかる。デフレからの脱却に関しては、財政政策(公的固定資本形成)ではなく、金融政策が有効であり、コールレート及びマネーサプライを変化させることでGDPデフレータ消費者物価指数インパクトを与えることが出来る、ということがこの実証研究からは確認できるわけだ。


出所:大西(2002)


出所:大西(2002)


出所:大西(2002)

(2)まとめ
 以上の物価変化に関する要因分析から分かることは何だろうか。まずここで取り上げた実証結果の相違点に着目すると、期待卸売物価上昇率を変数に含めた原田・中田(2003)ではコールレート消費者物価指数に殆ど影響を与えていないのに対して、大西(2002)のように期待要素を考慮しない場合にはコールレート消費者物価指数GDPデフレータに影響するという点は、金融政策が持つ期待の役割、つまり単にコールレートを上げ下げするのではなく、期待に作用することで効果を持つという側面を示唆しているとも読める*6
勿論、これらの実証分析の背後には標準的な経済理論が控えているとは言え、DSGEモデルのような枠組みに基づいているわけではないこと*7は、原田・中田(2003)においても指摘されている通りである。この点は今後の研究の進展や新たなデータに基づく実証研究の結果を待つということかもしれない。
しかしながら、物価変化に影響を与える要因として、マネーサプライ、GDPギャップ、コールレート、期待卸売物価上昇率の4つが可能性が高いという結果やデフレには財政政策(公的固定資本形成のコントロール)ではなく、金融政策(マネーサプライ、コールレート、期待卸売物価上昇率)といった要素が有効であるという実証結果は、(その2)でふれた物価の要因分解の結果と合わせて「物価は貨幣的現象である」という側面を如実に表しているといえるのではないだろうか。

*1:デフレーションは経済学で説明できないのか」ESRI Discussion Paper Series No.79

*2:IS-LM,AS-ADの枠組みでは直接は導き出せないが、実証分析では考慮されている。

*3:IS-LM,AS-ADの枠組みでは輸出や投資も説明変数として考えられるが、実質GDPが説明変数として考慮されているため、除いた形で推計されている。

*4:デフレーションの要因分析」、フィナンシャルレビュー2002年12月

*5:ちなみにグレンジャー因果性検定の結果からは、国内卸売物価指数からマネーサプライ、そして失業率という形で影響していくというパスが観察されているが、これは国内卸売物価指数がコアCPI及びGDPデフレータに幾分先行して変化する傾向があること、又、日銀が政策変数のコントロールの基準として国内卸売物価指数を判断基準としているという指摘(岡崎(1999)とも整合的である。国内卸売物価指数を判断基準としていると仮定することで90年代以降の日銀の金融政策が整合的に理解できるとの指摘は、http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20071121/p1も参照されたい。

*6:先の注の通り、大西(2002)の場合には国内卸売物価指数が物価に関する先行指標の役割を果たすと見れば、期待要素がコアCPIやGDPデフレータに影響するという解釈も可能だろう。但し、国内卸売物価指数そのものを「フォワードルッキングな政策判断の指標」として常に用いることが出来るのかは実際のデータを見る限りでは疑問符がつく。

*7:勿論構造VARといった話はあるが、DSGEモデルが結果として構造VARとして記述できることと、最初から構造VARを想定するという設定の間には大きな隔たりがあると思われる。構造VARに基づく実証結果を追加したとしても私の知る限り、物価に影響を与える要素という意味では変化がないものと思う。