J.E.スティグリッツ「The Failure of Inflation Targeting」(in Project Syndicate)を読む。

 

 近著(「スティグリッツ教授の経済教室−グローバル経済のトピックスを読み解く」、ダイヤモンド社)において我が国はインフレターゲティング政策を導入すべきでない(同掲書:p25)と論じるスティグリッツ教授*1だが、Project Syndicateに投稿された本論考の題名は「The Failure of Inflation Targeting(インフレターゲティング政策の失敗)」である*2。なぜ教授はインフレターゲティング政策が誤りと論じるのだろうか*3
 まず教授の議論を敷衍しよう。80年代初期に浸透したマネタリズムが信頼性を失う中で、各国の中央銀行はインフレターゲティング政策という新たな答え(枠組み)を得た。ここで教授の言葉を借りれば、インフレターゲティング政策とは物価水準が目標レベルを超えた場合に金利を上げるというものである。この奇妙な政策は、脆弱な理論と実証の上に成り立っていると教授は言う。
 教授は現在、インフレターゲティング政策はその有効性を試されており、それは誤りであることがほぼ明らかと言う。発展途上国は原材料価格の高騰による高いインフレ率に悩まされており、先進国と比較して必需財の支出シェアが高い発展途上国ではその影響が顕著である。例えば中国のインフレ率は8%に届く水準であり、ベトナムでは18.2%と予測されている。そしてインドは5.8%のインフレ率である。一方米国のインフレ率は3%だが、この事実を持って中国やベトナム、インドは米国よりも金利を引き上げるべきと言えるのだろうか。
 結論から言えば、ここで指摘している発展途上国のインフレ率の拡大は輸入財価格の高騰に起因しているため、金融政策によって金利を上げれば総需要の停滞をもたらし、(原材料の国際価格ではなく)非貿易財の価格を抑制する効果しかもたらさない。つまり、この状況下で金利を上げることは物価水準をターゲットとする水準に抑えることは出来ず、経済の停滞、失業の拡大、そして非貿易財の価格低下をもたらすことになる。(物価水準がターゲットとする水準を超えた場合に金利を引き上げるという)インフレターゲティング政策の採用は世界的な原材料価格高騰といった状況下では各国経済を停滞させ、問題の解決をより困難にするわけである。
 以上がスティグリッツ教授の議論の概要であるが、世界的な原材料価格の高騰によりインフレ率が拡大した場合に金融引締めを行うという政策は原材料価格の高騰を抑制することにはならず、逆に各国経済の停滞をもたらすという指摘は至極真っ当なものである。但し、この事実に依って「インフレターゲティング政策は誤りである」と論じるのは誤りである。
 例えばFRBバーナンキ総裁は「リフレと金融政策」(高橋洋一訳、日本経済新聞社*4の中で原材料価格の高騰に伴うインフレ率の拡大が生じた場合には、「金融政策の引締めではなく一段の金融緩和政策の検討を促す可能性の方が大きい」と指摘している。バーナンキ総裁の指摘はスティグリッツ教授の指摘と同様である。以前指摘したように*5、我が国を含む資源輸入国にとっては食料・エネルギーは必需財であるとともに輸入財でもある。これらの財の価格上昇は家計の所得を実質上低下させる効果をもたらし、総需要が脆弱な状況、そして国内財ベースのデフレに拍車をかける事態にもなりうる。事実、原材料価格の高騰により国内財の物価水準を示す我が国のGDPデフレータ変化率のマイナス幅は拡大しているのだ。
 そして、インフレターゲティング政策を行う際の基本的な枠組みは、スティグリッツ教授が指摘するように「ターゲットとなる物価水準を上回れば金利を上げる」というものであるが、それは実態経済を闇雲に無視してなされるべきだとは主張されていない。前掲のバーナンキ総裁の著書でも「雇用や景気に配慮しないインフレターゲティング政策は正しい政策でない」と指摘されている。
 バーナンキ総裁をはじめとする多数のインフレターゲティング論者が主張するインフレターゲティング政策は「一定の制約下の裁量政策」と呼べるのかもしれない。この場合、「一定の制約」とは目標とする物価水準のレンジであり、「裁量政策」とは「一定の制約」下で実態経済に配慮しつつ機動的な政策を行うというものだろう。結局のところ、スティグリッツ教授の指摘は、インフレターゲティング政策の否定ではなく、インフレターゲティング政策の厳格な適用−現下の経済状況に対して「一定の制約」に固執するあまり、「裁量政策」の余地を失うという事態になること−への警句とみるべきである。
 原材料価格の高騰という問題は、企業物価指数、消費者物価指数といった輸入財が含まれる統計指標においては「物価上昇」という結果が得られることになる。周知のとおり我が国においても日銀が採用しているコアCPIの対前年同月比は1.2%となっているが、それは食料、交通・通信、光熱・水道といった財の上昇によるものである*6スティグリッツ教授が指摘するように、金融政策においてこのような物価上昇を抑制するために金利を上げたとしても逆効果である。インフレターゲティング政策において目標とすべき物価水準の判断は、問題となっている原材料の輸入財の効果を除いたコアコアCPI、GDPデフレータにも配慮しつつなされるべきだろう。そして、インフレターゲティング政策を採用している中央銀行にとっては、現下の物価上昇に対する理解を市場に浸透させるとともに、雇用や景気に配慮する裁量が求められるのだ。

※一部追記しました。ご容赦ください(5/15)。

*1:この件についてはスティグリッツ教授の議論には私は同意できないが、それは別の話題。

*2:論説の全文はhttp://www.project-syndicate.org/の中に記載されている。

*3:本エントリと同様の指摘であるhttp://d.hatena.ne.jp/kmori58/20080513/p2もあわせて参照のこと。

*4:このあたりのインフレターゲット政策に対する誤解はhttp://d.hatena.ne.jp/koiti_yano/20080130を参照のこと。

*5:http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20080122/p1

*6:http://www.stat.go.jp/data/cpi/sokuhou/tsuki/pdf/zenkoku.pdf