松尾匡『「はだかの王様」の経済学』を読む。

 現代は生きることに「辛さ」を感じる時代かもしれない。自らを苦境に貶めるために仕事をし日々の糧を得ているわけではないのに、結局仕事に埋没し家に帰るのは深夜。家族とはまともに話すこともままならずそのままボロ雑巾のように寝、会社では顧客の無理難題に応えつつ、兎に角目の前のことをこなすのに精一杯。深夜勤務や休日出勤は当たり前、それほど会社に依存しているにも関わらず確たる将来は保証されておらず、毎年プロ野球の契約更改よろしくノルマに応じた査定により年収が決まり、ノルマがこなせなければ誰からも相手にされなくなり結局自ら職を辞する他はない、というのは正直に告白すれば己の置かれている境遇でもある。なぜ、自らが豊かになるための手段として仕事をしているにも関わらず、それに振り回されてしまうのだろうか。それは資本主義経済という現代のシステムが悪いのか、はたまた異なるメカニズムが働いているからなのだろうか。
 本書は、以上のような「生きることの辛さ」、つまり個人の意識が自己を離れて独り立ちした際に、「独り立ちしたもの」が個人の意識に作用し苦しめてしまう様を、「疎外」という概念を用いて解釈した書籍である。そして現代の経済学の道のりを「疎外」概念を用いて跡付けつつ、「疎外」概念に縛られた社会からいかに脱却することができるのかを論じた書籍でもある。

1.「疎外」とは何か
 まず本書の鍵概念である「疎外」についてみよう。詳細は本書を御読みいただきたいが、「疎外」とは人間の「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとりだちし、生身の人間を縛り付けて個人の暮らしを抑圧してしまうことを意味している。これは以下の二つの条件が重なったときに必ず、またそのときのみ発生するものである。

疎外と疎外論の公式

○疎外とは、人間の「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとりだちし、生身の人間を縛り付けて個人の暮らしを抑圧してしまうことである。

○疎外は以下の二つの条件を満たすときに生じる。
・各自が社会的依存関係の中に結ばれあって生きているとき。
・にも関わらず、依存関係の中にある各自の間で、十分に情報交流しあえないとき。

 本書の第一章及び第二章は我々の周りの様々な現象が「疎外」概念を用いて説明されている。タイトルにもある「はだかの王様」の話の中で、なぜ裸のはずの王様を、王様を含む全員が「見えない服を着た王様」と賞賛したのだろうか。それは、王様の周りのもの全員が「裸だ」と思っていたのに、商人の口ぶりから「裸だ」と正直にいえなかったためである。そして他の人間が「見えない服を着た王様」と賞賛している中で自分が口火を切って「裸」だというのはためらわれたからである。まさに、依存関係のある各自の中で「王様は裸でしょ。ぶっちゃけ(笑」という思いを共有できなかったために、個人の「王様は裸だ」という思いが個人から離れて独り立ちし、逆に「王様は見えない服を着ている」という個人の思いとは全く無縁の観念に縛られてしまったわけである。このような疎外という現象は、「はだかの王様」の話に留まらない。なぜ無益な戦争に突入したのかという話もそうだろうし、おカネはなぜ流通するのか、デフレや流動性の罠がなぜ生じるのかといった話も同様である。
 第三章は「疎外」の哲学と題して解説が加えられており、ヘーゲル流の「疎外」概念とマルクスエンゲルスの考えた「疎外」概念は異なることが指摘されている。さらに、「国家とは支配階級の暴力装置である」といった指摘や「階級社会」に対する批判といったものは「疎外」の結果として生じる弊害であり、マルクスエンゲルスが問題視したのは、結果弊害というよりは寧ろ「疎外というメカニズムそのもの」であったことが強調されている。

2.「疎外」と経済学
 本書のもう一つの重要な主題は「疎外」と経済学とのかかわりというものだろう。言うまでもなく、マルクス経済学はアダム・スミスに連なる古典派経済学の系譜を継ぐ経済学である。スミスの経済学は消費者・生産者といった個人の最適化行動が市場という枠組みを通じて唯一の均衡点かつパレート最適点に導かれることを論証する新古典派経済学へと進んでいく。個人の自由な行動が最適な帰結をもたらすという主張は予定調和的な考え方にも繋がるわけである。マルクスが批判したのは、市場メカニズム及び資本主義経済のプレイヤーたる個人の最適な行動が「疎外」というメカニズムを通じて個人にとって逆に最適ではなくなってしまうのではという点であった。
 その後マルクスが考えた経済学は「疎外」がもたらす階級社会批判や、「生の人間」を当時体現していると考えられた労働者を重視する社会革命・共産主義といった「疎外の弊害」を重視する方向、そして制度そのものを批判するという全体主義へと変化していき、新古典派経済学はエッジワースやジェヴォンスが有していた競争に参加する個人のイメージを薄めていくことで理論モデルとして純化していった。そして現代の経済学は、ゲーム理論を分析ツールとして用いることで「お互いに影響しあう複数の個人の間の意思決定」という古典派経済学が暗に有していた問題意識をよみがえらせたわけである。これは1.でみた「疎外」のメカニズムを現代的に解釈するという試みでもある。
 本書では、現代の経済学が「疎外」のメカニズムに向き合いながら経済のみならず制度分析にも対象範囲を広げていること、そして、複数のナッシュ均衡が成立するゲームの中でなぜ唯一の均衡が選択されているのか、複数のナッシュ均衡の中で「疎外」のメカニズムによりパレート劣位な均衡が選択されてしまう事例、そしてあるナッシュ均衡から異なるナッシュ均衡に移るというメカニズムはどのようにして生じるのか、という論点にわけて解説されている。このあたりの解説は非常に面白く読んだ。「はだかの王様」の帰結に即して言えば、「はだかの王様」と皆が思っていたにも関わらず「透明な服を着た王様」だという嘘が成立していた世界が、子供の一言によって各人の間の情報交流が図られ、結果「疎外」が解消されて皆が「はだかの王様」と言うようになったわけである。

3.「疎外」を乗り越えるには
 では「疎外」を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。本書の最終章はまさにその点を扱ったものである。「疎外」を解消するための方法はまさに「疎外」のメカニズムそのものにあるのだが、「依存関係にある個人の情報共有が図られる」ようにすればよいのである。
 本書では、今日の資本主義経済の持つ特徴が疎外を深刻化する要素(熟練労働者の必要性やそれを支える疎外システムとしての国家による福祉・医療、世の中のニーズを互いに知らずに見込み生産を行うこと)が足元では崩れつつあるという指摘とともに、19世紀の社会主義者らが展望したアソシエーション経済(自立した個人の水平的な意識的連合:社会的な事象が個人から自立して暴走しないように、個々人皆の合意でコントロールする社会)を構築していくことが必要、と結論づける。そして、アソシエーション経済を成立させるための行動として自分の身の回りから互いの理解を前提としたネットワークを地道に構築していくことが必要だと論じている。

4.感想 
 以上、本書の概要を簡単に紹介したが、本書を読んで感じた点は主に二点ある。
 一つは、「疎外」という概念と安冨歩「生きるための経済学」で語られる「自己欺瞞」という二つの概念は、考えているところは同じではないかというものである。個人の想念が独り立ちして「生身の私を縛り付ける」という自己と社会との関係そのものが「疎外」ならば、「自己欺瞞」は「疎外」に従っている自分の意識と「生身の自分」としての意識との葛藤を意味している。但し同様の問題意識に即して書かれた二冊だが、経済学に対する認識は異なっている。「生きるための経済学」では「自己欺瞞」という概念が市場経済学(新古典派経済学)への批判とともに主張されているわけだが、本書ではゲーム理論を主な分析ツールとして制度分析にも視野を広げている現代の経済学の問題意識が「疎外」と向き合っている様を描いている。現代の経済学の取組みを正当に評価するという意味においては、本書での視点の方が正確であるといえるだろう。そして、「生きるための経済学」でのビオフィリア・エコノミクスとしての具体例が本書では語られているという点も指摘すべきだろう。
 二つ目に感じた点は、本書で「疎外」を乗り越える方策として指摘されている「アソシエーション経済」と、それを成立させるための行動としての自分の身の回りから互いの理解を前提としたネットワークを地道に構築していくことの重要性についてである。本書でも指摘されているところだが、NGONPO活動が活発化している状況や、市や区といった地域社会の中で為政者と各個人、各個人間の意識統合を図りつつネットワークを構築していこうという試みは、急速な経済発展の中で「疎外」に蝕まれ、個人間や社会とのかかわりあいや意思疎通を失っていった現状において重要な活動だろう。著者は結果として革命という形をとってしまった東欧諸国の反省を踏まえつつ、現代の資本主義経済の状況を見据えながら現実的に「疎外」を乗り越える方策を探っているように感じた。
 但し、門外漢であることをあえて承知で言えば、「疎外」を完全に乗り越えることが可能なのかという点については疑問が残った。具体的に言えば「アソシエーション経済」を成立させようという過程の中で、個人の社会生活を担保するために必要なネットワークを構築することが可能なのかというものである。
 さらに、「アソシエーション経済」は人と人の関係、社会と人との関係の安定性を前提にしているようにも思う。ワルラス一般均衡理論が「アソシエーション経済」が到達した段階での人々の行動を描写していると解釈すれば、そこで描かれている人間像は無味乾燥であるというのも道理である。つまり皆の意識が変わらない・相互了解が図られているというのであればそういった要素は捨象しても問題ないわけである。しかし、一旦「疎外」が解消されたとしてもその状態が続くことはないのではないかとも思う。それは人間の命が無限ではないということもあるだろうし、世代交代が人々の意識の違いを生み出すことや、安定・調和とその破壊のダイナミズムを人間社会がそもそも内包しているのではという疑問にも繋がる。
 恐らく近代経済学が主流を占めるようになった状況において経済学を学ぶ人間にとってのマルクス経済学という位置づけは「何だか階級とか闘争とか体制といった難しい刺激的な言辞を弄した経済学」というものなのではないかと思う。かくいう私自身もそうであったのだが、本書は「疎外」という概念を用いて、簡明にマルクス経済学のエッセンスを伝えるとともに、その問題意識が極めて現代的な問題に根ざしたものであることを論じていると思う。是非、今の社会に矛盾を感じる多数の方にじっくり読んで欲しい本である。