松尾匡『「はだかの王様」の経済学』を巡る議論の私なりの整理

 メモ*1。結局のところ山形さんの書評と松尾先生の著書に関する議論という意味では、疎外=「社会的関係の中で結ばれあって生きている人間の観念が、生身の人間を縛り付けて個人を抑圧してしまう」という本書の定義を抑えているかどうかという点、疎外を乗り越える話をどう捉えるかという点、の二点に尽きると思う。
 一点目の疎外の定義については、(少なくとも本書の書評という意味では)松尾先生の反論どおりだろう。つまり山形さんの批判は、「疎外」を個人の私的な枠組みの中での葛藤として捉えてしまっているところが問題だと考える。松尾先生の著書でいう「疎外」は社会とのかかわりの中で生きる個人を対象としており、個人的な悩みは対象ではないというわけだ。山形さんの話に則って言えば、各個人が持つ「本当の私」をその他大勢が等しく理解することなんてありえないから、「話し合いによる理解」なんておかしい、となる。ただ、そのような話を本書では主張していない。
 付け加えると、個人的な悩みとしての葛藤が疎外ではないとは単純には割り切れない部分もあるのかもしれない。それは個人的な悩みであったとしても、個人が社会の中で生きている限り何らかの影響を社会から受けているためだ。但し、山形さんの書評で出てくる独自例にはこのような可能性が排除された個人的な葛藤の例が記載されている。私が本書の読書感想文で書いた安冨「生きるための経済学」の自己欺瞞の例は社会的通念(受験勉強を一生懸命やって一流大学に入れば云々とか・・)と自己との葛藤である。よって、安冨本で述べられている自己欺瞞は松尾本で述べられている疎外と同じ目線なのではと感じた次第。
 二点目の疎外をどう乗り越えるかについては、社会に参加するみんなの合意が必要というのが疎外論から得られる帰結だが、山形さんの指摘どおりそれは絶望的に困難である。そして本書の末尾(及び松尾先生の反論)においてもその点は大まかに合意されている。ではどうするかだが、それは個人の好みかもしれない。
 個人的に興味があるのは、個人個人の欲望を調整するメカニズムとしての市場メカニズムをどう捉えるかという話だ。この話を考える中で以下の二つの点を峻別すべきだと考える。一つは、山形流の「私的な葛藤」を調整する場としての市場メカニズムの優位性だ*2。ただこの点は別段双方の議論の乖離はないだろう。
 もう一つは、「社会的関係の中で結ばれている個人」の欲望を調整するメカニズムとして見た場合の市場メカニズムについてである。本書の議論は、各々パレート効率的なナッシュ均衡解が複数成立している際に、より望ましい均衡とそうでない均衡が成立している様を「疎外」に絡めて説明している。(ゲーム論ではなく)一般均衡理論の枠組みでは、市場メカニズムが導く均衡点は各プレイヤーの初期保有の状況と無縁ではない。生存可能点の枠内でも各プレイヤー間に著しい格差が生じている際に市場メカニズムにより成立した競争均衡が厚生上最適な均衡である保証はない。確かに市場メカニズムは各人の欲望調整メカニズムとしては効率的だが、成立している均衡が社会的に最適なのかは別という点に留意すべき。当然、現代経済学でもこの手の話は研究がされているし、現在も進展しているのだろう(僕は不勉強であまり良く知らない)が、思想としてのマルクスに比べて実証的・かつ現在の経済を分析する道具としてのマルクス経済学の影が薄いという現状を鑑みると、本書のような方向でのゲーム論の解釈は評価したいし、期待もしたいというのが自分の感想。要は多様な視点からの分析が進めば面白いのではないかと感じる。
 最後に、蟹工船が注目されたりマルクス復活といった風潮が、山形さんの書評の意味での「私的な葛藤」と簡単に共鳴してしまう危険性や、安易なポピュリズムを通じて「大きな物語」に転じるという危険性には重々注意すべきだし、自分の読書感想文でもそのようにも(見方によっては)受け取れる話を書いてしまっているのは反省。本を読むだけではなく、議論がなされると色々と勉強になると改めて実感した次第。

*1:整理になっていないというツッコミはなしでお願いします

*2:便宜上の区分のつもりです