「不況に関する二つのビジョン」が教えてくれるもの

 この所、竹森俊平「経済論戦は蘇る」を読み直している。同書は改めて紹介する必要は無いだろうが、我が国を襲った経済停滞に関する経済論戦を大恐慌期の経済論戦と対比しつつ論じるというものである。同書で掲げられているフィッシャーとシュムペーターの発言は、卓越たる経済学者の言葉として傾聴に値するものである。

つぎのような一つの均衡があるかもしれない。それは安定ではあるが、あまりにも微妙なバランスの上に成立しているので、そこから大きくはずれた場合には「不安定」が生じるのである。それはあたかも力を加えられた鞭がしなり、ポッキリ折れてしまうのに似ている。このたとえは、一人の債務者が「破産」に陥る場合、あるいは多くの債務者が破産して「経済危機」が起こる場合にあてはまるだろう。こうした出来事が起こったあとでは、もはやもとの均衡に戻ることは不可能になるからだ。もう一つのたとえを用いるなら、このような災害は、船の「転覆」にも似ている。通常は安定な均衡にいる船でも、ひとたびある角度以上に傾いたならば、もはや均衡へと戻る力を失い、かえってますます均衡から遠ざかる傾向を持つからである。(アービング・フィッシャー、1931年)

戦場における「敗北」が、軍司令官の「権威」と「自信」を打ち砕くのとまったく同じように、「経済危機」はビジネス・リーダーたちの「権威」と「自信」を打ち砕かずにはいない。それまで、政府の助けなどいらないと公言していた人々ならばなおさらのこと、いまは必死に政府の助けを求める様子が大衆の憤りを生む。大衆はこれまでなじんできた政治経済システムを、もはや我慢のできないものと感じて、あるときには、「反動」と呼ばれる方向に、またあるときには、「革新」と呼ばれる方向へと支持を変える。現実には、彼らがどちらの方向へ向かうかは、驚くほど大衆に影響をあたえない。こうした状況で、大衆は「特定の個人に非難を集中する」ことに喜びを見出すが、実際のところ、非難される個人の側にもそうなるだけの事情がある。戦争の成り行きが思わしくなくなったときに、「将軍」のクビを求める声が沸き起こるのと同じように、いつの時代も変わらず、ビジネスの失敗の原因をつくった責任者や、スケープゴートにされた人物を制裁しろという声が自然に沸き起こるものなのである。(ヨゼフ・アロイス・シュムペーター、1934年)

 フィッシャーは大恐慌に陥った米国経済においてリフレーション政策を提言した経済学者である。引用した言葉からもフィッシャーの経済に関するビジョン−つまり経済に過大な負の影響が生じた場合には、経済システム自体には過大な負の影響を乗り越えこれまでの均衡に戻る力を有しない−が垣間見れる。このビジョンは経済政策による停滞から均衡への後押し(リフレーション政策)の必要性を含意している。
 一方でシュムペーターの経済観はどうだろうか。周知の通り、シュムペーターは長期的には不況は経済にとって有益なものという認識を有していた。「不況」は経済システムの持つ様々な非効率性を顕在化させ、それを退出させる効果を持つ。引用箇所は、不況に伴う為政者・経営者の権威の喪失が大衆によるスケープゴートを要請するという指摘だが、これは我が国の経済停滞においても何度か垣間見られた光景であろう。
 経済システムに対する認識としてのフィッシャー的経済観とシュムペーター的経済観は、端的に言えば不況を悪と看做すか善と看做すかといった、対立した経済観である。これらの経済観は恐らく全ての経済学者・エコノミストにおいて幾分かの割合づつ存在しているものである。
さて、大恐慌の時代においてこの二つの経済観から得られる経済システムに対する処方箋は、フィッシャー的経済観に立てばリフレーション政策、シュムペーター的経済観に立てば反リフレーション政策、創造的破壊というものである。大恐慌下の世界経済が不況から立ち直る過程においては、金本位制を離脱し金融緩和政策を採用した国から順次、経済は回復していった。英国然り、米国然り、日本然りである。つまり大恐慌時の処方箋という視点から言えば、フィッシャー的視点が勝利を得たのである。
 安達誠司「脱デフレの歴史分析」においても表明されているが、実証としての歴史的事実に着目すれば、深刻な経済危機に対する処方箋としてまずリフレーション政策を真剣に吟味する必要があったのだろう。残念ながら我が国の長期停滞においては、先に引用したフィッシャーとシュムペーターの観察どおりの事態が生じた訳である。そして、大恐慌時の経験でもある金融緩和策を中心としたリフレーション政策の重要性が既に認識されていたにも関わらず、「構造改革」といったスローガンがもてはやされ、財政出動が繰り返された。さらに現代では、「構造改革」の揺り戻しから(バラマキであるかどうかは別にして)財政出動を求める機運が高まっているという状況である。
 無論、総選挙を射程に据えつつあるという現状や、増税の必要性を主張する現経済閣僚の面々が景気対策として財政支出を行うという状況は、次の政権において彼らの目標とする増税を可能にするための布石といううがった見方もあり得るかもしれないが、もういい加減為政者は過去の歴史からの知見に耳を傾けても良いころあいなのではなかろうか。殊更に外的要因からの影響による国内経済の悪化を指摘する論調が多いが、我が国の金融機関が蒙ったサブプライムローン関連の損失は、金融庁の発表(http://www.fsa.go.jp/news/19/ginkou/20080606-3/01.pdf)によれば8500億円である。数字の多寡はあるものの、各報道の数値を考慮すれば大きく見積もっても2兆円程度といったところだろう。さらに外的要因の悪化として指摘される原材料価格、特に原油価格はこの所低下傾向にあり、落ち着きを見せてきている状況である。価格水準がどの程度のレベルで落ち着くかは不明だが、いずれにせよ相対価格の調整・価格上昇の剥落が進むことで殊更に大きく喧伝されている「物価高騰」という現象は回避されていくことになるだろう。政府も景気動向指数の悪化が続いていることから、昨年秋口頃から景気後退が始まったとの認識を示しつつあるが、「外的要因に基づく景気後退だから大した対策は無い」という判断は間違いであると思う。寧ろ国内要因こそ現下の景気後退局面を作り出している元凶であり、フィッシャー的見方に基づく処方箋こそが現下の状況において必要なのではなかろうか。