「特集 インフレを克服する日本」(Voice9月号)を読む。(その1)

 世界経済においてインフレが昂進している。Voice9月号では、このインフレをどのように克服していくべきか、我が国経済への影響をどう見れば良いのか、という点を中心に、各氏が論説を寄せている。以下では、各氏の論説の中で印象的な点を取り上げつつ、感想を述べてみることにしたい。

1.資源バブルが弾ければ日本経済はそのメリットを享受するのか?
 ビル・エモット氏は「資源バブルは間もなく弾ける」の中で、先進国の石油消費の減少、中国やインドといった新興国の金融引締めの可能性によるインフレの緩和(及び成長率の鈍化)といった需要の減少が、資源価格の高騰を今後緩和させると述べ、あわせて日本経済への影響を論じている。昨今の原油価格の下落に見られるように、8月に入って資源価格の上昇ペースは反転もしくは鈍化しているが、「資源バブルが崩壊した」かどうかと結論づけるのは早計だろう。エモット氏は世界的なインフレ傾向が弱まると、日本経済が享受するメリットは大きいと論じるが、この点は疑問に感じた。以下、順次見ていくことにしよう。
 商品価格の上昇で日本経済が受けた打撃は大きく二つであり、それは消費者物価の上昇に伴う生活必需品以外の商品を購入する余力の低下と企業収益の低下である。エモット氏によれば、このような影響は日本経済にあって痛手だと論じるが、明らかなことはこの影響が破局的なものではなく、日本経済の成長率は07年の2.1%から08年には1.7%程度に減速する程度の影響に留まると述べる。
 私はエモット氏の見立ては商品価格上昇の日本経済へのインパクトの経路の指摘という意味では正しいものの、実態経済への影響は少々楽観的であると思う。エモット氏が想定する07年の2.1%成長は暦年ベースの実質成長率についてのものだが、四半期ベースで直近(08年第1四半期)の成長率を見ると、前年同期比で1.3%となっており、07年中の四半期におけるいずれの成長率(07年第1四半期から順に、前年同期比ベースで3.2%、1.8%、1.7%、1.7%、平均して2.1%で暦年ベースの実質成長率に一致する)と比較しても有意に低い。
ちなみに大方のエコノミストの見方(ESPフォーキャスト08年7月調査*1)によれば、08年第2四半期の季節調整済実質GDP成長率(前期比年率)はマイナス0.74%、第3四半期は0.74%、第4四半期は1.18%となる。内閣府SNA統計から08年第1四半期2次速報値の実質季節調整済係数(年率換算*2)を用い、ESPフォーキャスト調査の前期比年率の見通しを用いて08年の季節調整済系列を求めると実質GDPは570兆円程度となるが、ここから得られる暦年ベースの実質GDP成長率は1.6%である。ESPフォーキャスト調査は8月12日に新しい調査結果が公表されるが、恐らく鉱工業生産の2期連続のマイナス、輸出の減少、政府の景気判断の見通しの転換、といった材料を受ける形でさらに下押しされるだろう。
 もう一つの側面は資源価格の高騰の影響が根強く日本経済に作用するのではという点である。原油価格は周知の通り140ドル/バレル台まで高騰したが、現在では110ドル/バレル台にまで低下している。しかしながら物価への影響という意味では即座に原材料価格の変化が反映されるわけではなく、緩やかに物価の調整が進むものと考えられる。昨年の7月時点で原油価格は70ドル台だったわけだから原油価格が110ドル台になったとしても依然として価格の伸びは十分に高い。今後原油価格がどの程度の水準に落ち着くのかにも依るが、順調に下落するとしても半年〜1年間程度は物価への影響は持続するだろう。さらなる懸念材料もある。資源や穀物の国際価格は概ね7月にピークをつけている状況だが、例えば、小麦については本年10月に国内業者に対して適用される輸入価格がさらに引き上げられることが検討されている。輸入価格の高騰は急激だが、それによる国内産品の価格調整は原材料価格を除いた物価水準がデフレである我が国において他国よりも緩慢となる可能性が高い。景気後退懸念が顕在化している状況では尚更であり、一旦値上げした商品の価格を業況が弱い状況の中で原材料価格が値下がりしたといって即下げるとは思えないのである。以上からすれば、08年の実質成長率はゼロ%台にまで減速することも覚悟する必要があるのではないだろうか。
 纏めると、少なくとも今年・来年といった短期において日本経済が「資源バブル崩壊」の恩恵を他の世界よりも享受することが出来るというのは楽観的に過ぎると思う。寧ろ、実態経済が悪化している状況の下では「資源バブル崩壊」による相対価格の変化は他国と比較して緩慢となる可能性が高く、さらに02年以降の経済成長が外需頼みの側面が強いと考えれば、「資源バブル崩壊」の論拠の一つである新興国経済の低迷は、日本経済に有意なマイナスの影響をもたらすといえるのではなかろうか。

2.インフレを受け入れつつ環境に適応していくことは可能か?
 「インフレを克服する」といった場合、インフレを実態経済の悪化と引き換えに是正するという側面とインフレを受け入れつつその環境に適応していくという側面の二つがあり得るだろう。藤巻健史氏の論説は、まさに後者の観点に属するものである。
論説の中では、資源及び食料価格高騰の原因は、我が国で巷間言われるような投機的要因が主ではなく需給要因によるところが大であることが分かり易い例を用いて説明されている。このあたりの解説は市場の現場を良く知る氏の面目躍如といったところか。
 さて、我が国のインフレ率は消費者物価指数でみて2%といったところであり、ゼロ近傍の期間が長かったこと、さらに必需財である原材料価格の上昇に起因するために購買力の低下という形で消費者個人がそのインパクトを認識し易いという理由から、過度に深刻な論調が目立つところである。勿論、現状のインフレは望ましくはないが、ディマンドプルを伴った2%程度の物価上昇率が持続するのであればそれは好ましい事態である。インフレになっているのであれば、カネの価値は持続して低下するため株式や土地といった資産に投資することで価値の目減りを防ぐことが出来る。円安を是認することはドル高を指向する米国経済、及びドル準備を大量に保有する新興国にとってもメリットがあり、我が国経済においても、資産価格の高騰、実態経済の改善といった好ましい側面がある。
 我が国は「インフレ」と言われるが、その元凶は輸入財の価格高騰によるものである。国内経済への影響という意味ではGDPデフレータやCPIコアコアはマイナス及びゼロ近傍であり、これは内需の弱さを示唆している。藤巻氏は、CPIの上昇という状況が、これまでタブー視されてきた議論を進める契機になる、個人金融資産を活用することが必要と論じているが、内需の弱さと輸入財の価格高騰が同時並行的に進む状況では、個人は負担感の程度に応じて流動性の高い資産へのシフトを進めるという行動をとるのは合理的であり、個人金融資産を活用しようとはしないだろう。この点の認識は経済財政白書にも欠けていると感じるところである。必要なのは、タブー視されている議論の中で最も即効性があるもの、つまり金融緩和についてまず検討すべきではないだろうか。

*1:http://www.epa.or.jp/esp/fcst/fcst.html

*2:季節調整済係数を4倍した値