「特集 インフレを克服する日本」(Voice9月号)を読む。(その2)

3.支離滅裂な「金利上昇の繁栄論」
 「又か」との感想をお持ちの方も多いだろうが、松田哲氏は「金利上昇の繁栄論」と題して、今後さらにインフレが進んだ場合に「円高インフレ」が生じると論じている。氏によれば、円高インフレとは「インフレの進行とともに、円が1ドル=80円という水準まで上がり、日本経済をプラスに導くシナリオ」というものである。松田氏は、「円高インフレ」が生じた場合の日本経済の影響について論じているが、氏が論じる「名目為替レート1ドル=80円の元でのインフレ」など生じないだろう。そして、「円高インフレ」の元で生じるであろう(と氏が考える)日本経済の状態は決して起こらないだろう。以下、松田氏の論じる点について補足を加えつつ、見ていくことにしたい。
 まず、松田氏の「円高」の定義だが、松田氏は名目ベースの円ドルレートを問題にしているが、為替レートが経済的に意味を持つのは、ドルだけではなく他の貿易相手国を加味した実効レートであり、さらに貿易相手国の物価動向を加味した実質実効レートである。
図表は名目ベースの円ドルレート*1、名目及び実質の実効為替レート*2(以上月次データ)を示しており、1980年代の動向と2000年代の動向を比較している。直近の動向を見ると、名目実効為替レートはサブプライムローン問題が顕在化した07年7月から円高(上昇)に転じており、08年3月以降は円安(下落)となっている。そしてこの動きは名目ベースの円ドルレートと同様である。一方でこの間の実質実効レートは100近辺を横這う形で推移しており、さらに言えば2006年以降実質実効為替レートの動きは100近辺で安定的である。

図:80年代、90年代、00年代の名目為替レート(左目盛)、名目実効レート・実質実効レート(右目盛)の推移

(出所)日本銀行

 この事実は何を示すのだろうか。言えることは、サブプライムローン問題が発生し、原材料価格の高騰が進展した07年7月以降から08年3月までの名目為替レートにおける円高の進展の正体は、実質実効為替レートの変化を伴ったものではなく、ほぼ全てが我が国と世界との相対物価の変化に起因したものであったということだ。
つまり松田氏が言う「円高インフレ」とは、世界各国と比較して我が国の物価上昇が緩慢であることを示しているのであり、(論考中で強調されているような)特別な現象ではない。松田氏は1985年のプラザ合意時の「円高インフレ」の経済状況にふれながらプラザ合意以降の最高値である1ドル=80円を到達ターゲットとすべしとの議論を展開しているが、過去の円高期(プラザ合意以降)においては、07年7月から08年3月までの状況とは異なり、名目レートでの円高の進展の際には必ず実質実効為替レートの円高が生じている。実質実効レートの変化が安定的である状況で、名目レートでの円高80ドルを進めるということは、世界経済と比較して我が国のインフレが緩やかであることが必要となる。
 松田氏の想定がいかに非現実的かを簡単な数値計算で確認しよう。図表のデータから名目レート1ドル=80円の際の名目実効為替レートの値は360程度だが、直近時点の名目実効為替レートの値は300程度である。物価上昇のみで名目レートを80円の円高にするには、世界の物価上昇率が我が国よりも20%高いことが必要であるが、世界各国がインフレを懸念し必要な政策を行っている際に企業物価指数ベースで我が国の物価上昇率が世界と比較して20%も低いという事態が生じるとは到底思えないのである。
 問題の根が原油等の資源や穀物・そして貴金属といった国際商品であれば尚更である。我が国の主要貿易相手国である米・中・EUASEANといった諸国は国際商品の価格高騰がそのまま国内企業物価の上昇として加味されてしまうという意味で我が国と条件は同じであり、20%程度の物価上昇率の差が実現するには、我が国は国際商品の高騰下で国内企業物価指数がかなりの規模で下落する状態が生じなければならないだろう。つまり本格的なデフレの到来である。そしてそのような状況の下では、松田氏が論じる株価や不動産価格の上昇、長期金利の上昇に伴う金利正常化の進展などは生じず、円高が輸入財の価格上昇を緩和するとしても焼け石に水だろう。当然ながらハイパーインフレの懸念など生じず、健全なインフレなど夢のまた夢ということになるのだろう。