今月の経済論説から(その1)(2008年12月)

 今年も12月となり、月刊誌も「1月号」が刊行される季節となった。今月は経済論説という意味では「中央公論」、「文藝春秋」、「Voice」、既に紹介した「世界」といったところが面白いだろうか。印象に残った論説を基点にしつつ纏めていくことにしたい。

1.歴史から探る危機の教訓と未来
 田母神論文問題のせいだろうか、どの月刊誌もなんらかの形で過去の話題が取り上げられている。「中央公論」も例外ではないが、「特集 間違えだらけの昭和史」に収められている竹森俊平氏高橋是清井上準之助に関する考察(「昭和恐慌、正しかったのは高橋是清か、井上準之助か」)は現代に生じている事象を考える上でも興味深い題材を提供している。氏の「世界デフレは三度来る」を読んで疑問に思っていた話だが、我が国が世界に誇る偉大な政策担当者としてタッグを組んだ後で、なぜ高橋と井上は袂を分かつようになったのかという点が当時の国際金融状況を加味しつつ論じられている。対外安定(金本位制の遵守)を重視し、そこから国際的な対内安定(金融政策による物価安定)を模索したベンジャミン・ストロングと、逆に対内安定から対外安定の道を模索したケインズとの距離感は実は(現在言われるほど)広いものではなかったのではないか、その点は井上と高橋との相対立する距離が実はそれほど隔たりがあったわけではなかったということを示唆する。
 現在の視点で見るのならば、高橋是清の解答が正しかったことは明白である。そして井上の選択が結果として誤ったのは二つの不幸が重なったことによると氏は論じる。一つ目の不幸は、1930年に金本位制復帰に踏み切ったのは1929年の株価大暴落を大恐慌の始まりとするならば「異常な選択」だったが、実はクレジット・アンシュタルトの破綻が生じた1931年以降に金融危機大恐慌への扉を開いたというハロルド・ジェームズらの解釈に従えば、「異常な選択」とは看做せないのではないかという点である。そして財政規律のアンカーとしての国際協調、その方策としての金本位制遵守の立場から緩和的な金融政策により米国の金融引き締めに伴う債務国のマネーの収縮(景気悪化)を抑制しようと試みたストロングが1929年に死去したことも不幸だった。これが二つ目の不幸である。
 これらの不幸は現在生じている事態にもつながっていく。一つ目の不幸は、クレジット・アンシュタルトの破綻をリーマン・ブラザーズの破綻と対応づければ、リーマン破綻以前は金融危機、以後は世界的な実態経済への悪化への波及という整理につながる。多くの人々が危機の深化を見通せなかった以上、井上の選択を無碍に批判することは難しい。この意味ではバーナンキ総裁も過ちを犯したといえるだろうが、しかしながら我々は大恐慌から学んでいることもある。そして恐らくは、高橋是清の解答がバーナンキ総裁により決然と実行されるのだろう。二つ目の不幸に関して言えば、「対外安定」から「対内安定」を目指す立場と「対内安定」から「対外安定」を目指す立場との間の差は両者が「世界の中央銀行」の必要性という認識につながるという意味では紙一重の差なのかもしれない。ケインズの着想は大幅に薄められる形でIMFとして具現化され、その過程でドルを基軸通貨とする現在の国際金融体制が構築されていったのは周知のとおりだが、仮にドルの位置づけが弱まっていくのだとしたらケインズの構想が再び脚光を浴びることがあるのかもしれない。
 文藝春秋に収められた岩井克人氏の論説(「基軸通貨ドルが退位する日」)は氏が『貨幣論』で展開した「自己循環論法」を垣間見るようで面白く読んだ。「自己循環論法」は資本主義の不安定性に関する論証にも適用されるが、興味深いのは、ドルの退位から「世界の中央銀行の創設」というケインズの着想が成立しやすい環境にあるのではないかというくだりである。ドルの基軸通貨としての位置づけの停滞が多極化を生み出すという論調はよく聞かれるところである。そしてその場合の論拠の一つは、新興国を含む多くの国の間の利害関係の調整の困難さである。
 岩井氏の議論は基軸通貨としてのドルのシニョレッジが中東政府系ファンド、日本や欧州などの金融機関という形で国際化している点に着目している。多くの国がドルのシニョレッジに対して既得権益を有しているのであれば、ドル危機は米国一国の問題ではなく既得権益を有する多くの国の問題としてのしかかってくる。そうすると、米国の破綻を食い止めるために国際的な救済シンジケート団のような組織が出来る可能性があるだろう。米国金融機関を救済するためにシンジケート団が各国からの融資を裏づけとした証券を発行するとしたらどうなるだろうか。これは、多数の通貨バスケットを準備金とした国際決済通貨のような動きをするかもしれないと氏は論を進めていく。
 氏が強調するように、このような話はSF的な話なのかもしれない。恐らくは氏が指摘するようなハイパーインフレの可能性はごく僅かなのだろうし、そもそもドルに代わる通貨がないという現実がドルの凋落に歯止めをかけているというのが実態だろう。SF的な話の続きでいえば、氏の指摘は、ジョン・テイラーが主張した「グローバル・インフレーション・ターゲティング」といった政策枠組みにもつながるのかもしれない。多額の財政出動の結果としてドルの価値への疑念が生まれ、その過程の中で代替する通貨が生まれるとは言いがたい状況であるのならば、現実的な可能性は各国協調の下で政策的にドルの価値を支えるという話にもつながっていくのかもしれない。こう見ていくと氏が強調するSF的な話が現実のものとして浮かび上がっていく可能性は実は多いにあるのではないだろうか。

2.迷走の中で必要な政策とは
 文藝春秋に収められた論説の中でもう一つ取り上げるべきは、「2009緊急提言 逆転の日本與国論」と題された特集だろう。危機の中で我が国の経済政策が迷走しているのは事実である。現実問題として我が国が行った施策は0.2%の政策金利の緩和くらいのもので、細々とした政策はセットされているものの実行に移されている政策は少ない。8月29日に発表した「安心実現の為の緊急総合対策」で示されている政策は名称のとおり、現下の危機に即応した「経済対策」ではなく、原材料価格高騰に対応した生活対策である。おまけに原材料価格高騰は峠を越してしまっておりタイミングの悪さが目に付く。さらに定額減税(給付金方式)を含む「生活対策」は10月30日に、新たな雇用対策は12月9日に公表されたが、これらを織り込んだ第二次補正予算の成立は来年に持ち越しである。
 このような状況の中で我が国の財政政策は財政赤字の拡大の懸念と実態経済の悪化という相対立する難題に直面していると考えられている。原田泰氏の論説(「消費税アップは15年後でよい」)は、このような相対立する難題と考えられている話題の交通整理が的確になされている。
 まず一つのポイントは「定額給付金は3年後の消費税増税がセットになっている」という点だ。「定額給付金2兆円を今あげるから、3年後消費税1%分(2.7兆円)税金徴収する」というのはたちの悪い冗談である。こんな話に皆が喜んでカネを出す筈がない。わざわざ将来の増税を主張した上で現在の減税を論じる態度は90年代半ば以降の税制改正(直間比率是正)の流れで行われた一時的所得減税と消費税増税の組み合わせを想起させる。この件に関する実証分析によれば、一時的かつ将来の増税を念頭においた減税策は結局需要の先食いに終わってしまうことが明らかになっている。日本人は政府が思う以上に賢い人種なのである。尤も需要の先食いであるとしても定額給付金の額だけ人々の懐を暖める効果はある。しかしながら現下の状況を考えるのならば2兆円という規模は過少だといえるだろう。
 二つ目のポイントは、日本の財政の特徴が簡潔に論じられている点だ。つまり、これまでの財政の動きは、増税により税収が増えたら政府はその分使ってしまうのである。そして税収が減れば財政は悪化してしまうのである。財政赤字を減らすのであれば、景気を拡大させ、支出を削減すること、そして税金の有効な使い道に知恵を絞ることだろう。
 国民の不安が消費を萎縮させるとはよく言われる話だが、仮にこの話が真実だとすると、国民の不安とは、国民から徴収した税金がどのような形で国民のために使われているのかがわからないことも一つの要因である。そしてマスコミや官から提供されている情報そのものも国民の不安をもたらすもう一つの要因である。権丈善一氏は「安心なさい、年金は破綻しない」として「未納により年金が破綻する」という前提そのものが誤りであること、又そこから派生する税方式への移行という主張に対する反論を展開している。思うに、政府から公表されている年金試算は不親切なものが多い。この頃は情報量が少ないという不親切さは無くなったように感じるが、実感にはあわない前提条件での試算などは依然として散見されるところである。たちの悪いことに、その試算結果のみを見て消費税増税がこれだけ必要だという話題が踊り、それがさらに国民の不安を煽るという結果になっている。少子化を克服し被保険者数を増やす政策を行うのが正しい年金問題への解であるが、そのためには老人主導ではなく現役世代主導、かつ現役世代が自らの力を存分に発揮するような世の中を作ることが必要なのである。そのために最も有効な政策の第一歩が経済成長を高めていくことは言うまでもないことだろう。

 さて、先に記したように、SNA二次速報値を受けた各予測期間の経済見通しが今年度及び来年度マイナス成長となっているような現実にあって忘れ去られているように感じるのは緩和的な金融政策の必要性である。この論点に関しては、中原伸之氏が「白川総裁よ、金利をゼロにせよ」として論じている。バーナンキ総裁から「ジャンクではない唯一の人間」と評価された氏ならではの論が展開されている。言いえて妙だが、「日銀内の金融引き締め派は「タカ派」と言われている。経済の悪化に対してタカをくくる人たちだ」などいう氏の言葉は早期に緩和策を主張し、結局中原提案を跡付ける形で進んでいった金融政策の過程を考えると重みを持つ。印象的な論点は、日銀総裁に最も求められる資質は予測能力という指摘である。そして、実態経済を肌で感じる能力という指摘である。残念なことに白川総裁の発言やこれまで日銀が公表している判断見通しを見る限りにおいては、中原氏の二つの指摘の欠如が狭い信念に基づく小手先の政策を生み出し、そのことが、出来ることは何でもやり、既成の政策に拘らずに政策目的に即した新たな政策を生み出していく欧米中央銀行との差として現れているように感じてならない。米国の現状に際してクルーグマンが大規模な財政出動を主張している事実を挙げて、クルーグマンの変節ないしは金融政策の無効性を論じる人々も見られるところだが、クルーグマンの日本経済への助言は「景気を刺激せよ。ゼロ金利に戻れ。これに尽きる。」である。マイナス成長が二年連続で続くなどと見通される事態の中にあって今必要なのは財政政策と金融政策のポリシーミックスである。麻生首相はこの状態の中で「日本の経験を踏まえると、利下げは効果がない」と発言したそうだが、これが真であるのならば情けない事態である。我が国の状況を見るにつけ残念かつ不幸な事態だと感じるところだ。