佐伯啓思「現代日本のリベラリズム」から

グタグダ日々の雑事を行っているうちに、このブログの更新が追いつかず放置状態に@@;



ということで久しぶりですが。



最近自宅の引越しをしたのですが、その際に偶然見つけた佐伯啓思氏の「現代日本リベラリズム」。

1996年に書かれた本ですが、戦前を軍国主義ファシズムと規定してしまい、個人による自由主義と民主主義とに立脚した形で戦後日本を形作ってしまった我が国の思想状況の混乱を論じており、とても味わい深い本です。学生時代、佐伯氏の真摯な論説に感嘆しながら読んだのが懐かしく思い出されます。



その中に我が国の戦争責任に関する論考があります。彼は丸山真男が言うような、戦争責任は軍国主義ファシズムに基づく当時の「国家」にあったのだという言説にくみせず、戦争責任とは国家というシステムに

依存するのではなく最終的には国家という形を成立させている個々の国民に属するものだと書いています。



とこう捉えてしまうと、では我が国の戦争責任というものがあった場合、日本で生をうけた一国民である私は

どのような形で責任をとるのか、感じるのだろうかと考えてしまいます。



自分の父や祖父、曽祖父が戦争に向かったのは何であったのだろうか。無論家族や故郷、隣人を守る必要があったからに相違ないと思うわけですし、その時代を生きた人間に対して、全く異なる時代を生きる自分が過去の人を簡単に断罪する程、思い上がった存在である訳でもありません。



これらの責任は道義的なものである以上、実際に被害にあわれた方に対しては同情および哀悼の念を禁じえないのは当然のところです。ただ、戦後60年が経過しつつある現在において責任を追及する側、追求される側ともに当時の当事者ではなくなりつつある現状において、互いが理知的な形で双方論じ合うことが必要なのではないかと思います。



中国・韓国による激しいデモは本来治外法権である我が国大使館を襲った事、そしてその襲撃に政府当局が当初(どのような事情があるにせよ)黙認という形をとったことは極めて残念なことです。この点について、熱くならずに主張すべきことは主張し、誠実な関係を作ることが残された世代にとって重要なことではないでしょうか。



なんだかお決まりの文言になってしまいました。一義的な戦争責任ということでは、我が国は戦争に負けたわけであり、東京裁判や戦後処理を通じて、さらに数年前の村山発言といった形での「お詫び」を繰り返しているところです。



同じく敗戦国となったドイツは戦前と戦後との歴史的な断絶を避けるために、(意図した形かどうかはわかりませんが)、ナチスという異常な集団をスケープゴートにしてドイツ国民に対する戦争責任を回避したのは周知のところです。

日本の場合は、ドイツと比較するにナチに該当するような組織の存在がなく、スケープゴート足りえる存在がないことがその後の思想の混迷を生み出しているものと思います。



今日はこんなところで。また続きを次回書いてみたいと思います。