成熟度

風邪を引いてしまい、少し早めに帰宅しました。通常は終電ギリギリくらいの感じが多いのですが、たまに早く帰ると新鮮な感じがします。前回の投稿に関連して少し書いてみたいと思います。

ということで、久々に筑紫哲也のニュース23を見たのですが、多事争論で成熟度というお題で筑紫氏が話していました。

内容は終戦60周年にちなんで、ベルリンの中心部に反対意見を押さえて巨大(異様)な慰霊碑を建立し、盛大な式典が行われた事、ネオナチや右翼の台頭にともない、慰霊碑に落書きをするような者もいるのだろうが、「落書き自体がドイツの成熟度を示すものである」との意見があったこと、そして、終戦60年を経て尚謝罪を続けるドイツに対して、我が国は「いつまで謝罪しつづけるのか?」といった議論があること、等が紹介されました。

ドイツがなぜこれほどまでにデリケートに謝罪にこだわるのか。

ドイツ国内の若者層のナチスへの傾倒や右翼化の傾向や、戦争相手国が陸続きであること、EU内における関係といった状況の中で、ユダヤ人に対する大量虐殺を行ってしまったこと、そしてそのことは戦争において人を殺めたという事実以上に重い「人道に背く」行為であったということを深く認識している為、認識せざるを得ない為ではないのでしょうか。

ドイツはナチスドイツ国民とは異質な集団と位置づけ、この集団がおこした戦争に対して、ナチスを生み出した国として謝罪しているのであって、そのことでドイツ国民を隣接する他国から守り、戦争をおこしたという

事実の責任者をナチスにゆだねることにより戦前と戦後の歴史の連続性を保ってきたのだと考えます。

戦争による殺人行為は好ましい事ではありません。ただそれ自体を悪といってしまえば、悪といえる行為をしたのは戦勝国も敗戦国も同一でしょう。

大雑把に言えば、ドイツは戦争を引き起こした当事者のみならず、それを通じて大量虐殺という人道に背く行為を行った事、誰の目にも明らかな大量虐殺という事実は戦後処理における罪の精算・賠償ではぬぐいきれない程大きいという事実から執拗に謝罪を行っているのではと想像するのですが・・・。

筑紫氏ははっきりとは言いませんでしたが、「戦争に対して謝らない人は成熟していない」と言いたげでした。ドイツは執拗に謝りつづける・・それが成熟した大人の国家だと。

私にはセレモニーとして大規模な謝罪の意志を示し続けなければならないドイツという国家、そして我が国の戦争時の状況はドイツとは又違うものであった事、そして現在の国際環境も異なっている事を考えるととてもそのように簡単に割り切ることができる問題なのだろうか・・・と思うのですが。

(以下追記)−−−−−−
国際関係の中で、執拗に謝り続けるという選択も名よりも実を取るという意味で「成熟した大人の国家」だという言い方も出来るのだろうか・・。

私はそんな国家に所属したくはありませんし、かつ上記の理由からドイツはドイツという国として誤り続けるのではなく、ナチスという異常集団を生み出した事自体を遺憾としているのですよね。いずれにせよ、筑紫氏についてやるせない気持ちは隠せません。