バグワッティ『自由貿易への道』を読む。

 本書は現在の国際貿易論における分野の大御所の一人でもあるバグワッティ教授の年来の主張である自由貿易の有効性について、ストックホルム大学で1997年に行った講義を取り纏めたものである。
 バグワッティ教授は1934年にボンベイにて生まれ、ケンブリッジ大学、MIT、オックスフォード大にてサミュエルソンキンドルバーガー、ソロー、ヒックス、ハロッドといった当時の碩学の教えを受けた。教え子にはクルーグマンら著名な経済学者がいる。 言うまでもなくこの本の柱は(書名の通り)自由貿易についての教授の冷徹な理論に裏打ちされた信念であり、第1章 自由貿易をおびやかすもの、第2章 自由貿易への新たな挑戦、第3章 自由貿易を推進するために、を通じて読者に自由貿易を柱とした貿易政策の意義を教えてくれる。


1.自由貿易の有効性
 自由貿易の有効性はアダムスミス「国富論」および同時期に書かれたコンディヤックの「通商と政府」の中で取り上げられ、スミスの考え方を継承し洗練させたリカードの比較優位説として経済学の中の共有財産として輝き続けている。
 第3章の冒頭で、第1章、第2章の簡単な(2,3行の)要約が書かれているが、過去150年にわたる自由貿易に反対する影響力のある挑戦の中で、自由貿易に関する理論がいかに時代に対応し洗練されたものへと変革してきたのか(第1章)、今日の新たな自由貿易論に対する挑戦も既存の理論により退けることができること(第2章)、といった内容について本文の3分の2程度を使って丁寧に記述がなされている。
 具体的には、第1章は?自律的な価格メカニズムがうまく働かない「市場の歪み(失敗)」が生じている場合においても尚、貿易政策としての自由貿易は最適な政策であること、?保護貿易にまつわるレントシーキング活動および広い意味のDUP(非生産的直接利潤追求活動)は、経済厚生を課税の死荷重以上に悪化させる可能性があること、そして?自由貿易を政策として選択した各国の経済成長が進んだこと、が指摘されている。?は第二次大戦後に輸出産業を起点として外貨を獲得し、さらに経済成長を図っていった日本、韓国、台湾などの東アジア諸国の例を見ると明白である。
 さらに第2章では現代の新たな自由貿易への挑戦に対しての教授の冷徹な反論がまとめられている。具体的には、?保護主義への堕落を裏に秘めた「公正な貿易」からの自由貿易に対する挑戦、?自由貿易は環境を害するという懸念、?自由貿易は社会的・倫理的課題の解決とは矛盾するという批判、?豊かな国と貧しい国とが自由貿易に基づいて交易を行うと、前者には貧民が生まれ、後者は貧しさが悪化するという点に対する反論である。以上を通じて、教授は自由貿易の有効性に対する反論を経済学的な見地にたって細かく議論し、一つ一つを論駁していく。


2.自由貿易を推進するために
 だが、本書の主題は第1章および第2章の議論ではなく、第3章で取り上げられている貿易自由化に向けた代替的アプローチについての議論であろう。つまり、WTOに代表される多角的貿易自由化交渉といったツールではなくFTA自由貿易協定)およびEPA(経済協力協定)といった互恵的な自由化が世界各国において急速に進む現状へのバグワッティ教授による反論である。
 まず一つ目の論点は、地域経済統合の持つ締結国と非締結国への経済的影響である。FTAおよびEPAの経済効果を考える場合、プラスの効果として自由化が結ばれた国(締結国)および非締結国の貿易が促進される効果(貿易創造効果)が働く一方で、締結国間で障壁が撤廃されるかわりに非締結国が域外国に対して新たな障壁を適用することで非締結国との交易が阻害される貿易転換効果が観察される。 教授は貿易転換効果が非締結国の経済厚生を悪化させることを重視し、GATT第24条で禁止されている非締結国への貿易制裁の増加はAD(アンチダンピング)などの弾力的かつ選択的な非関税障壁の使用を通じて、「新たな保護主義」が生じると指摘する。ちなみに我が国とのFTAの経済効果に関する応用一般均衡モデルによるシミュレーションでは、FTAを締結することによる非締結国の貿易転換効果は貿易創造効果を下回っている点が指摘されており、締結国および非締結国にとってwin-winの姿となると結論づけられている。但し、このようなシミュレーション分析には教授の指摘する、ある貿易政策に伴って生じる対応の可能性(締結国同士で撤廃した貿易障壁を非締結国に新たに非関税障壁として適用する可能性)は折り込まれていない点に留意すべきであろう。
 二点目の論点は、教授の言うFTAの濫用がもたらす影響である。各国の間で結ばれるFTAの件数は90年代以降急激に増加しており、網の目のように張り巡らされるFTAの線を見て取って、教授は「スパゲッティ・ボール」と名付けている。ボールのようになったスパゲッティをほぐすのは容易な事ではない。それは既存の複雑な麺の一つ一つに特恵という名のソースがからみつく事で、より強固な固まりとなる一方で、ソースが別の麺を呼び込むことで自己増殖するような存在としても見て取れる。
教授は以上のような世界貿易を取り巻く状況について、「このような愚かしさは長続きしないと思っている」と断じており、楽観的な見通しを述べているが、このような複雑化したFTAの乱立状態はいつまで続くのだろうか。そしてこの乱立が究極的にはWTOが目指す多角的交渉に立脚した互恵主義に収束していくのだろうか。さらに政策としてFTA乱立を制限するインセンティブを取り込む枠組みを作ることが可能なのだろうか。
 我が国の場合、個別国間のFTA(EPA)が幾つかの国との間で締結されたものの、要素移動の自由化を含めた第2ステージへの道のりは遠い。さらにアジア域内の経済圏を作るという目標に対してはあまりにもクリアすべき道のりが遠いように感じられる。戦略的貿易政策論が華やかなりし頃、一貫して自由貿易を主張した教授の主張が再度正当だったと言われる日が来るのかが興味深い所である。