田中秀臣『最後の「冬ソナ」論』を読む。

 『冬のソナタ』のブームに代表される「韓流」という言葉の成立と、その後各テレビ局から放映されている大量のドラマ、韓国俳優の来日に群がるオバサマ達の群れ、といった状況を当初私は「なんだか又訳の分からないブームがやってきたなぁ・・」と傍観しているのみであった。そんな中、私が韓流ドラマというべきものを見たのは、イ・ビョンホン主演のドラマ「美しき日々」を家人がテレビにかぶりつくように熱狂的に見ているのをちらちらと眺めるのを通してであった。クールな役回りのイ・ビョンホンチェ・ジウとのふれあいを通じて時折みせる微笑み、そして家人とで「カリアゲ君」と勝手に名付けたリュ・シオンの母性本能をくすぐる仕草、どうしてそんなに不幸になりたいのかとやきもきさせるチェ・ジウの演技に昔ながらの懐かしい日本のトレンディードラマを感じてしまった次第である。その後、修道女姿のソン・ヘギョに萌えな「オールイン」を毎週楽しみに見てしまい、さらに現在、自分の中で「韓国版ミスター味っ子おしんの融合形」とみなしつつ見ている「チャングム」・・というのが私の韓流ドラマの全てである。
 さて、「最後の『冬ソナ』論」(田中秀臣著、太田出版)である。あまたある(と想像する)冬ソナ論の中で、「最後の」と挿入された題字からも田中先生のこの著作に対する思い入れが想像される本である。
 この本は2部構成であり、第1部では、なぜ『冬のソナタ』に魅かれるのか?と題して、冬ソナの魅力を論じている。そして第2部では、なぜ経済学には純愛がないのか?と題して、純愛の持つ要素である利他的な側面が経済学にどのような影響を及ぼしうるのかが論じられている。この構成から私がまず想像したのは作者である田中先生が「一粒で2度美味しい」本を意図されているのではないかということだ。つまり、韓流ブームにどっぷり浸る奥様層に対して、冬ソナに対する筆者としての共感を語りつつ、奥様層である自己を客体化する要素としての純愛の経済学を与えるという視点、そして、経済学loverな者達に対して昨今の「萌え」ブーム、経済論争に組み入れるべき要素としての利他的な愛の提示、そして利他的愛の題材としての「冬ソナ」を与えるという視点だ。私は以上の韓流ドラマはまり度からも明らかな通り後者に属する訳だ。
 後者の視点から見ていくと、従来経済学で想定されている利己的愛、システムに参加する主体の利己心がシステムとしての経済を自律的な安定化に導くという視点に加えて、利他的愛がもたらす「信頼」関係が経済を安定化させるという指摘、そして利己的愛から導かれる行動様式と利他的愛がもたらす信頼関係の相互作用が経済システムの正常な運行には不可欠であること、という指摘はもっともながら重要な視点である。
 本書の白眉は、この視点の重要性を我が国で進展した「デフレ」という文脈、およびその中で展開されたマクロ経済政策論戦の中で具体的に明らかにしつつ、合わせて、「冬ソナ」に共感するという思いそのものが利己的な心を重視する昨今の社会のあり方に対するアンチテーゼとして存在していたのではという形で「冬ソナ」共感という現象を解釈した点にある。以上の点は、「冬ソナ」と聞いて敬遠する人々にとっても重要な視点であり、広く知られるべきものだと思う。
 利他的愛がもたらす影響については、森永卓郎氏の一連の恋愛経済学もの(「紳士と悪女の経済学」、「非婚のすすめ」)の文脈の中でも「無償の愛」を捧げる対象としての悪女の存在という形で議論されていた。森永氏の著作の中で、「最後の『冬ソナ』論」で例示されている渡辺淳一氏の小説における有償の愛と対置させうるものは、「風俗嬢への有償の愛」ということなのだろうか。
 森永氏の悪女論は、「もてないオジサン」としての一人の男がなぜ「無償の愛」を悪女に捧げてしまうのかに重点が置かれているが、森永氏が「萌え」の考察を行っているのは、(私を含め)大量発生している「もてない(およびもてようとしない)男」への応援歌としての要素もあり得ると思う。その意味で「悪女論」拡大版としての「萌え」経済学がある訳だ。
 ちなみに「紳士と悪女の経済学」では、恋愛を成立させる要素として、「男女の距離が近い程惹かれ合う」という恋愛のクーロン力の存在が議論されているが、これは「もてたいがもてない」人への応援歌(笑)としても理解できる。森永氏の議論は、無償の愛を提供する個人に視点を置いた、愛のミクロ経済学とでも呼べるものなのかもしれない。ともあれ、田中先生流の「萌え」の経済学の議論が楽しみな所である。

 さて、先にも書いたが本書の「一粒で2度美味しい」という視点が正しいものであるならば、本書を味わい尽くすには私は「冬ソナ」を見通さなくてはいけないのだが・・・それは遙か先の話かもしれない(泣)。