「勝ち組」と「負け組」を考える−橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』を読む

 橋本治氏の新刊『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』(集英社新書)。パラパラと本屋で中身を見ていたのだが、考え込んでしまった。それは本書で取り上げられている「勝ち組」と「負け組」という存在の成立に関する言説、およびそこに携わる彼が「エコノミスト」と呼ぶ存在に対してである。以下、これらの点について感想を述べてみたい。

1.「勝ち組」と「負け組」の成立
 まず氏は、まず「勝ち組」と「負け組」がどのような形で成立してきたのかを論じている。本書によれば、「勝ち組・負け組」という言葉は、第二次大戦時に南米に在住した日系人の中に存在した、「負けを認めない事実誤認派」と「負けを認めた事実認識派」を指す言葉として成立したとの事だ。
 現在の「勝ち組・負け組」という言葉の成立は、バブル経済崩壊、その後の失われた10年という文脈の中で、進歩を前提とする理念・イデオロギーの時代が崩壊し、依るべき思想・判断基準を持ち得なくなった日本人の行動規範として成立している。そして、新たな「勝ち組・負け組」は上記の意味合いを離れて経済的な勝敗結果と、「勝敗の結果」という時間軸効果をはらんでいる。「勝敗の結果」が絡むことで、「勝ち組・負け組」という言葉は、現時点での貧富の差のみならず、未来がある=勝ち組、未来がない=負け組、という将来を見通す概念としても成立し、「金銭的に裕福であるか否か」の一点において、個人が行った判断の正当性が問われる、と論じている。
 私は、氏の以上の考え方はバブル崩壊といった経済的停滞が原因であるという点においては正しい、と思う。ただあえて批判したいのは、今言われている「勝ち組・負け組」という考え方自体はバブル以前の日本社会において既に存在しており、別にそのこと自体は新しい価値基準ということはないのではということだ。例えば、「勝ち組・負け組」に対応する概念として、バブル期に華やかだった3高(「高学歴・高身長・高収入」)も一つの価値基準であろう。高身長はその人の持って生まれたもの、高学歴は(その人が属する組織・仕事での出世という形で)将来を見通す概念、高収入は現時点での優位性と(高学歴とセットとなることで)将来の更なる優位性を保証するものではなかっただろうか。


2.本書で語られる「エコノミスト」について
 氏は、「勝ち組・負け組」の区分を生み出したバブル崩壊後の現在を、知的な「乱世」だと述べている。ここで乱世とは、「どうしたらいいかが分からない」世の中をさしており、未来を見る能力がある=頭が良いということが知的な「乱世」を勝ち残る手段であるとしている。
 本の中で、「エコノミスト」という存在は橋本氏の言う「勝ち組・負け組」発生論を生み出した存在、経済的に勝ちか負けかを判断する投資家の周辺にいる人々を指している。エコノミスト批判はこれまでにも(氏に限らず)様々な形でなされているが、正直このような文脈の中でエコノミストという存在が語られるのは十二分に違和感がある。無論、現在の改革路線の中で橋本氏の言う「勝ち組」に乗っかる形で自民党をぶっ壊したと言った小泉首相の背後には、改革路線を後押しする形で構造改革を標榜し、「勝ち組」をあからさまに認定するようなエコノミストが居たことは事実だろう。ただ一方にはそうではないエコノミストも多数存在する訳であり、あえてその存在を無視する形で一括りにした上で批判を加えるのは文中で「よくわからない」と言いつつ、誠意を欠くのではないか。氏のような著名な方が「わからない」を半ば言い訳にしつつ、「わからない」人に向けて論を展開していく事への危険性を認識すべきではないか。本書を読んで、「わからない」事が氏の議論を補完する一つの役割を演じているようで違和感を覚えた。

3.ではどうするのか?
 橋本氏の論説は、「勝ち組・負け組」を生み出す時代を「知の乱世」と捉え、「勝ち組」と「負け組」という考えがなぜ成立したのか、その中で果たした「投資家」と「エコノミスト」の役割といった議論に続けて、経済とは国民のものではなく、政府、官僚といった存在の所有物であるということが経済を難しいものにしてしまった理由の一つであること、そして欲望の膨張と世界経済との関係について論を進めている。さらに最後に議論を通じて「もしかすると自分が意図しない形で経済主体として参加することを通じて」、「なんにもできない構造」を経済は内包している、との結論に達している。
 「なんにもできない構造」をどうするのか?という問いに対して橋本氏は、現在の結果へと繋がる過去の「逆転した論理」を元にもどす作業が必要であると述べている。「なんにもできない構造」なのだから、当然解決は容易な事ではなく、「逆転した論理」を元に戻すという解決策の一例として、昭和30年代に成立していた「我慢をすること」の重要性を挙げている。私自身は、バブル崩壊といった現象により「勝ち組・負け組」といった階層分けが生じており、それが問題であるのならば、バブル崩壊といった現象、その後に生じた経済的停滞をいかに解決するかが問題を解決する方策としては妥当であり、当然ながら「なんにもできない構造」だから「我慢をすること」が望ましい方策だとは考えない。
 橋本氏は巻頭で「勝ち組」と「負け組」といった階層分けが「思考の平等」を犯すのではないか、と述べている。個人的にはたとえ「勝ち組」を支える考え方が優位な立場にたったとしても、それは多数の人に受け入れられているという意味での優位性であり、「負け組の言うことには耳を傾けてもらえない」という形で議論があからさまに黙殺されるという程、現在の我が国の言説が深刻なものなのかは不明だ。本書における「勝ち組・負け組」の生成に関わる議論は面白いが、経済にどう対するのかについての氏の論説には違和感を覚えた。