「萌え」を経済的に解釈するとどうなるのか−森永卓郎『萌え経済学』を読む。

 昨今話題になっている『萌え』産業については、今年になってシンクタンクのレポート・書籍が発行され、現象面として経済への影響がいかなるものかという観点に立っての分析がなされている。本書は、『萌え市場』なる言葉を生み出した森永氏の著作であり、「萌え」とは何か、「萌え」産業の動向、「萌え」がもたらす日本経済へのインパクトに力点が置かれている。
 思うに氏が「萌え」を起点とした新たな消費の到来を指摘するきっかけは、以前から氏が強調していたゾンバルトの理論(贅沢品の消費が経済を活性化する:本書にも記載あり)における消費の重要性、ラテン→イタリアの消費社会に対する共感、そしてミニカー・ペットボトルのキャップ・芸能人のタバコ吸い殻、消費者金融ティッシュ・・・といったモノに対する過剰とも取れる愛というご本人の性向が上手く噛み合わされた結果(笑)なのではないかと感じる次第である。個人的主観に基づく前置きはさておいて、真人間の視点から、この本の感想を述べてみたい。


1.「萌え」とは何なのか
 「萌え」とは何か。この問いに対して、「萌え」自体が多様な意味を有するため、確固たる答えを見いだすことは難しい。本書では「萌え」について、「アニメなどのキャラクターをこよなく愛すること」と定義されている。この定義を読むと、なぜアニメキャラクターをこよなく愛することが出来るのか?といった疑問が当然ながら生じる。本書では、その点についてアニメキャラクターを生み出す供給側(現実性の獲得)、およびそれを受容する需要側の視点(愛の抱き合わせ販売の崩壊)での議論が進められ、それらの総体として「萌え」の経済的解釈が提示される。ガンダム以降のリアルロボット路線、その路線を人のあり様にまで推し進めたエヴァ、結果として見た目ではなく心象としてのリアルさを追求するアニメの成立という視点は既存の書籍でも取り上げられているため、本書の特色が需要側にあることは明白である。そう、森永氏が爾来主張している恋愛経済学での議論の現代版が本書において展開されている訳である。


2.躍進する「萌え」産業、そして消費の変容
 「萌え」とは何か、に関する需要側と供給側の解釈に続いて、「萌え」産業の躍進、アートに萌える豊かな日本へ、オタク化する消費とネット市場という形で、氏の議論が展開されていく。「萌え」産業の躍進では、ヒトの心に作用するリフレ産業、メイド喫茶といった新しい産業の振興が描かれている。そしてアートに萌える豊かな日本へ、では、氏の爾来の主張であるラテン化が日本を救うという議論、イタリアが産業空洞化をアートにより食い止めた話、今後のモノ作り論、消費の多元化といった議論、最後に消費の今後とネット市場の存在について論が進められていく。これらの議論を読むと氏が様々な物に対して好奇心を持ち、そしてそれらを自らが体験し楽しんでいる事がよく分かる。「萌え」って良く聞くけど、実体経済に対してどんな影響があるのだろう?どんな事が考えられるのか?という疑問を持っている人の情報源として有益だと感じた。


3.「萌え」の先にあるもの
 門外漢の自分には荷が重い話だが、サブカル論からオタク論、そして「萌え」という形で、我が国のサブカルチャーにまつわる議論は徐々に広い対象を獲得し、人々の多くを取り込みつつあると思う。「萌え」の先にあるものとして何があるのかは判然としない。またもしかすると、数年後には「萌え」市場といった話はメインストリームとしての経済に取り込まれ、我が国経済の主要産業としての位置づけを獲得する事で泡沫の話として記憶されるのかもしれない。もしくは本当に泡沫となって消え去るのかもしれない。
 私が本書を読んで興味を覚えたのは、「萌え」に取り込まれた若者層の今後である。少子高齢化が叫ばれ、実際に人口減少が進んでいる昨今、アニメ等の中に存在する記号に共感・愛を感じる「萌え」る男達が実際の恋愛市場の主要なプレイヤーとして復権するのか否かである。氏はそのための対策として、「愛の抱き合わせ販売」(性愛、相互理解、相互依存という愛の3要素のセット販売)の崩壊を食い止める為の方策として終身雇用制による男性の復権を掲げているように思う。
 ただ、本当に「愛の抱き合わせ販売」が復活出来、恋愛市場にて弱者である「キモメン」が市場プレイヤーとして光が当てられるようになった場合、本書で展開される新たな消費の動きやアートに萌える豊かな日本といった状況は崩壊するのだろうか、逆に現状を維持したまま「愛の抱き合わせ販売」なしで「キモメン」の恋愛市場復帰(解脱したアキバ系の現世復帰)はあり得るのか、といった疑問が生じる。氏には是非続編として、「萌え」を取り巻く恋愛市場の今後について本を書いて欲しいと感じた次第である。