安冨歩「生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却」を読む。
本書は現代の経済学が「ネクロフィリア・エコノミクス」(死に魅入られた経済学)であると規定した上で、「ネクロフィリア・エコノミクス」たる現代の経済学が「ビオフィリア・エコノミー」−ネクロ経済の論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、ビオフィリア・エコノミーを活発にするための「ビオフィリア・エコノミクス」へと立ち返ること−の必要性を主張している。それが、書籍の題名にもなっている「生きるための経済学」の意味である。
著者の論理に従えば、さしずめ私のような人間は現代の経済学が照射する光(恩恵)を片隅でひそやかに受け止めつつ「道具主義」の欺瞞に安住し、そして自らのみならず人々の自己欺瞞が正当であると唱導する「ネクロフィリア・エコノミスト」の一員なのかもしれないが、私個人の認識は全く別のところにある。この点を論じる前に、まずは著者の議論をおさらいしてみることにしよう。
1.「ネクロフィリア・エコノミクス」、「ビオフィリア・エコノミクス」への道
現代の経済学はなぜ「ネクロフィリア・エコノミクス」なのだろうか。著者の議論はこうである。まず、著者は現代の「市場経済学」(新古典派経済学)が、「相対性理論の否定」、「熱力学第二法則の否定」、「因果律の否定」という三つの物理学の根本法則の否定の上に成り立っていると指摘している。これは著者の弁を借りれば現代の市場経済学が「科学」ではなく「錬金術」であることを意味する。そして著者の問いは以上の「市場経済学」の理論が孕む問題点にも関わらず、なぜ「市場経済学」が受け入れられているのかという点に向けられる。
その答えは、「市場経済学」が「自由」の守護神であるため、「市場経済学」を否定することが「自由」を放棄することになる、と人々が恐れているからではないかというものである。それでは「市場経済学」が奉じる「自由」とは何だろうか。それは、さまざまな財の選択の組み合わせの中で唯一の組み合わせを選び取るという「選択の自由」である。つまり、十分な選択肢が与えられているのが「自由」という現象であり、それを選び取るという行為の中に「責任」が生じるというわけだ。ただし、この「選択の自由」は無限に広がる選択肢を与えられた場合に人が選択できるのかという選択可能性の問題と、仮に唯一の選択肢を選びとったとしてもその帰結を予測し得ないという意味で「責任」を引き受けることが出来ないという「予測不可能性」の二つを孕んでおり、「選択の自由」とは実は「行使不可能な自由」である。著者はこのような状態に人間が直面する際のありようを「自由の牢獄」と表現している。
「自由の牢獄」は様々な側面を有する。一つは選び取ることができないという状態が神や全体性への盲目的服従という暴走を生み出すというものである。そして真の意味での自由を勝ち取ることが出来ない人々は不安と自己嫌悪に悩まされる。それは自己欺瞞という「本来の心」の隠蔽工作につながり、自己欺瞞は自分自身の価値を他人に認めさせることで失われた自我を補填する行為−「虚栄」に人間を駆り立てる。この「虚栄」は人間の欲望の根幹を成し、人々はつねに「希少資源」を争って利己的となる。「利己心」は今すでにあるものの奪い合いだけである。「市場経済学」が奉じる「自由」の担い手である人間像はこのようなものとして描かれると著者は云う。そしてその「選択の自由」は本来成立しえないものだが、成立しうるものとして「市場経済学」が描かれていると著者は指摘する。
著者の「市場経済学」への批判の矛先は消費者及び生産者といった経済主体の選択理論にも向けられる。周知の通り、消費者及び生産者の行動は予算制約下での効用最大化、技術条件の下での利潤最大化問題として「市場経済学」は記述する。これはそもそも外部から与件として与えられた条件が存在している以上、主体性を欠いた受動的行為を意味しており、このような経済人はある与件の下で行動する自動人形に過ぎない。そしてこの行動様式−人間の生を否定し与件の元での自動人間として人間を捉えるというもの−はプロテスタンティズムの神学と整合する。
このように、現代の「市場経済学」は「自由の牢獄」に人間を陥れ、自己欺瞞という「本来の心」の隠蔽工作を通じて利己心を発露すること、そして利己心と希少資源の元で自己の最適化を測る存在として「人間」を定義するという思考にとらわれている。これが著者の云う「ネクロフィリア・エコノミクス」の意味である。
著者は続けて、「ネクロフィリア」に対抗する概念として「ビオフィリア」を挙げる。「ビオフィリア・エコノミクス」の論理は、自愛の上に立ち、そしてそれは自己の肯定につながり、安楽・喜び、そして自立を促すものである。さらに自立は「積極的な自由」を生み、そのような人間の持つ思考・行為・コミュニケーションには創発が宿る。人と人との間、そして人と生態系の間に創発の連鎖が生じるときに調和が生まれるというものである。
2.現代の「市場経済学」をどう捉えるか
このように展開される現代の「市場経済学」に対する著者の「ネクロフィリア・エコノミクス」としての論理は著者自身の生活体験の吐露とも相まって非常に説得的に映る。
しかし確認すべき点は、著者の批判の矛先である現代の「市場経済学」は経済学者やエコノミストが立脚する最終地点として位置づけられているものではなく、著者の眼からみればネクロフィリアにとらわれているのかもしれないが、日々地道な歩みを進めるべく努力がなされているのではという事である。そして著者自身が指摘するように、批判を通じた学問上の前進を進めていくため、ひいてはフリードマンの指摘する現実に進行する経済への処方箋のツールボックスとして、現代の「市場経済学」はあるのではということだ。
経済学そのものの懐は思いのほか深いというのも事実である。現代では職業人としての経済学者・エコノミストのみならず、現実経済の動向に対して問題意識を持ち、先人にとって使い古された羅針盤を持とうとせず我流の「複素経済学」などという羅針盤を持って未開の地平を目指そうと航海を進める猛者もいる世の中である。著者が主張する「ビオフィリア・エコノミクス」に向けて努力する人々は著者の眼に映る「ネクロフィリア・エコノミクス」の蛸壺に押し込められている人々の中にも案外と存在するのではという思いも去来する。
そして、現代の「市場経済学」が「ネクロフィリア・エコノミクス」であるとする著者の指摘が孕む副作用についても論じる必要があるだろう。具体的に言えば、著者の指摘は「人を選ぶ」ということだ。著者の論理は現代の「市場経済学」を批判の対象として設定されている。それは先に指摘したとおり、新たな思考を進める素材という意味では「ネクロフェリア・エコノミスト」も共通なのだ。現代の「市場経済学」を理解せずに盲目的に否定するという行為は、著者の云う「ビオフィリア・エコノミクス」の理解への道が閉ざされることを意味する。そして私自身のつたない経験から述べれば、著者の「ネクロフィリア・エコノミクス」仮説は満足な羅針盤を持たない人間を虚無およびニヒリズムという同書で指摘する「ネクロフィリア」の一側面に落とし込む結果になりはしないかとも思うのである。
さらに指摘しておきたい側面がある。繰り返しになるが、著者の批判は「市場経済学」のプレイヤーとして仮定されている「合理的経済人」そのものの特徴、そして「合理的経済人」が与えられた制約条件に従って市場(シジョウ)という枠組みの中で模索を行った結果として全ての市場で需給が一致する価格・数量の元で取引されているという行動様式、に対してのものである。これらの想定自体への著者の批判は、規範的(normative)な意味での「市場経済学」に対するものだろう。しかし経済学はもう一つの側面として実践的(positive)な側面も有している。それは現実に繰り広げられている複雑な経済現象を如何に簡明な枠組みで描写し、そしてその枠組みを用いて複雑な経済現象を解釈するという試みである。著者が本書の中で吐露していた経済学に対する疑問は私も等しく思ったところである。しかし、仮説としての理論を設定し、さらにそれを現実データとの対応関係の中で仮説の当為を検証するという演繹−帰納の枠組みの中にあって仮説の当為を判断するのは厳密には容易なことではなく、その試みが(個人的には)頓挫しているのではとも思える。
こう言うと「道具主義」の隙弊に陥っていると言われるのであれば仕方ないのだが、「長期には皆死んでしまう」中にあって出来合いの道具立てで推論し、現実経済を解釈する試み、そしてその中で少しずつ前進する行為自体も立派な「ピオフィリア・エコノミクス」だと私は思うのである。そして自分はこの意味での「ピオフェリア・エコノミクス」への旅路に期待をかける者である。著者が選び取った「ピオフィリア・エコノミクス」への航海に幸あらんことを祈る次第である。