上久保敏「下村治 「日本経済学」の実践者」(評伝 日本の経済思想)を読む。

 

 本書は戦後日本を代表するエコノミストの一人である下村治についての評伝である。「日本経済」に真摯に立ち向かった下村が幾多の論争を経て自己の理論を彫築・熟成させ、さらには「日本経済学」と呼べる水準にまで到達した様を活写することに本書は成功している、と思う。
 以下、本書の「下村理論」=「日本経済学」を、それを支える縦糸と横糸とも言える二つの視点(理論的視点、哲学的視点)を中心にみつつ、現在の日本経済において下村の「日本経済学」をどのように評価することが可能なのかについて感想を述べてみることにしたい。

1.「国際均衡と国内均衡の同時的実現」としての下村理論
 下村理論の「縦糸」としての理論的視点を構成するものは「国際均衡と国内均衡の同時的実現という条件」である。具体的に述べれば、「国際均衡」とは国際収支の均衡を輸出入の変化を適切に見通しつついかにバランスさせていくかというものであり、「国内均衡」は、供給側としての潜在成長と総需要とをいかにバランスさせていくかというものだろう。
「国内均衡」の把握にあたっては、供給側及び需要側に共に存在する設備投資の動きを把握することが肝要である。さらに「国際均衡と国内均衡の同時的実現」とあるように、「国際均衡」と「国内均衡」は相互に連関し、一方では長期的な潜在成長経路として、他方では景気循環としてその相貌を映し出しながら両者が一体となって日本経済の変容を形作るわけである。
 そして、この「国際均衡と国内均衡の同時的実現」という課題は、戦後日本経済の変遷と課題に符合していく。列挙すれば、まず終戦直後の混乱期にあって生産力不足という不均衡において上昇する物価をどのように抑えるべきかという問題、そして高度成長の前段階期においては超過需要の圧力が高まる中でいかにして経済を均衡状態に戻すべきかという問題、続いて高度成長期において急増する設備投資によりもたらされた生産力の増加に対していかに経済を均衡状態に戻すべきかという問題、最後に石油危機後において高い石油価格という制約下で国際収支の均衡を維持しながら経済成長を実現することは可能かという問題である。
 この問題に取り組むにあたって、下村は経済学者・エコノミストと論争を重ね、論争を通じて自説を練磨していくことになる。それは、初の「経済白書」執筆時の都留重人との意見の違いでもあり、後藤誉之助・竹村豊・金森久雄との間で繰り広げられた「在庫論争」、大木佐武郎・都留重人・吉野俊彦らとの間で繰り広げられた「成長論争」、鈴木淑夫との間で繰り広げられた「インフレ論争」であった。繰り返しになるが、争点は先の「国際均衡と国内均衡」をどのように見込み、かつ考えるかという点であったわけだ。そして現代において振り返れば、「国際均衡と国内均衡」に関する下村の視点は正しかったことは明らかであり、「成長論者」から「低成長・ゼロ成長論者」への下村の主張の変化は、上記の視点に即して言えば「変節」ではなく、「国際均衡」と「国内均衡」を支える環境変化がもたらした当然な変化であったのだ。

2.下村理論を支える哲学−経済成長はなぜ重要なのか−
 先に述べた論争を通じて下村は独自の「日本経済学」を構築していく。では下村の「日本経済学」、特に高度成長論を貫く哲学は何だったのだろうか。著者は、それは敗戦後の日本が貧しさから脱却するにはどうするべきかという問題意識と、日本国民の才能への強い信念であったと論じる。敗戦による荒廃・貧困からの脱却には経済成長しかなく、経済成長によって日本経済は安定的な均衡状態に導かれ、国民の才能を生かす最大最良の方法であり、日本国民ならば間違いなく経済成長を達成できる、と下村は考えたわけである。本書にも引用されている以下の下村の言葉は、1%台の成長率に留まっている我が国経済に対してもそのまま当てはまる。そしてなぜ経済成長が必要なのかという問いに対しての答えとしても今もなお有効であり、日本経済のあらゆる欠点や弱点を並び立て「醜いアヒルの子」としての日本経済論を奉じる全てのエコノミストに対する批判として捉えるべきものだろう。

「わたくしたちは、なぜ、このように努力し、苦労してまで成長を追及するのでしょうか。/なによりも、わたくしたちは、生きがい、働きがいを求めます。そして、最大の生きがいは、わたくしたちが自分の能力をじゅうぶんに発揮できたと思うときではないでしょうか。国民のすべてにそのような機会を与える社会をわたくしたちは追求しているはずです。/今日の社会と100年前の社会とくらべて根本的にちがうことは、今日、ようやくにして国民の多数がその才能をなんらかの形で生かす機会を与えられつつあるということではないでしょうか。そして経済の成長こそが、それを可能にしたのではないでしょうか。・・・わたくしたちが、かくまでに経済成長を追及するのか、奥底をさぐってゆきますと、その問いに対して、このような答えが出るのではないでしょうか」

 さらに、同書に記載されている下村の歴史観も興味深い。著者の言葉を借りれば、「下村の歴史観は、創造力が成長発展の根源であり、経済的な運命は国民自身の努力によって切り開くことができるというものであった。高度成長は国民の創意工夫、創造力がいっせいに解放されて実現したのである。」、さらに、「下村の考え方は決してレッセフェール(自由放任)の思想ではなく」、「下村の成長理論は人間によるあくなき可能性の追求を前提にしたものであった」のだ。蛇足だが、安冨歩氏が指摘する「ビオフィリア経済学」の一側面は少なくとも「高度成長論」としての下村理論の中に既にあったのではなかろうか。

3.「下村理論」と現代経済
 以上、本書の「日本経済学」としての下村理論の要点につき簡単に纏めてみたが、先にも述べたとおり、「日本経済」に真摯に立ち向かった下村が幾多の論争を経て自己の理論を彫築・熟成させ、さらには「日本経済学」と呼べる水準にまで到達した様を活写することに本書は成功していると思う。自分にとっては下村の「日本経済学」が何であったかを学ぶことが出来て非常に有益であった。
 それでは、現在の経済環境の中にあって下村の「日本経済学」を元にするとどのような帰結が導けるのだろうか。下村は国際収支が均衡することと国内均衡が同時に達成されるような経済を基点に据えて、当時の経済環境を観察して独自の経済分析を行った。既に述べたように、それは高度成長期の「高度成長論」であり、石油危機以降の「ゼロ成長論」でもあったわけだ。本書でも指摘されているとおり、下村は寧ろ「ゼロ成長論」を唱えていた期間の方が長い。高度成長期においては設備投資の大幅な増加を核とした国内経済の拡大均衡、そして世界経済の成長過程が国際経済の拡大均衡をもたらした。この状況を下村は正確に見通すことが出来た。下村が「ゼロ成長論」に至る過程においては、石油危機というエネルギー問題の制約が決定的な役割を果たしている。エネルギー問題の制約が、民間企業の設備投資の伸びを抑制してしまうため、財政政策で経済を刺激しても民間需要の拡大は生じず、GNPの増加は財政支出をカバーするだけの税収をもたらさず、財政は赤字状態で定着してしまう。世界経済全体が石油危機で成長条件を破壊されているため、貿易摩擦を起こさずに輸出主導型の経済拡大を図ることは難しい。このため、国際均衡と国内均衡の同時的実現を果たすには縮小均衡−ゼロ成長−が必要であり、財政均衡が崩れたままでの成長は不安定なものであるということだ。
 このように見ていくと、現代の経済にあっては下村の見立てを適用すると日本経済は「ゼロ成長やむなし」という状況なのではないかとも思える。事実、2007年度の実質成長率は2%を割り込み、名目成長率は実質成長率よりも低い水準、国内付加価値のデフレは残存しており、原材料価格の高騰が家計の消費を徐々に制約するに至っている。財政赤字は「失われた十数年」の中にあって悪化の一途を辿っており現在深刻な水準に至っている。そして高齢化の進展は社会保障費の増大をもたらし、必要な財政支出はさらに膨らむことが容易に見込まれる。対外経済に目を転じれば、欧米経済はサブプライムローン問題に伴う混乱の中で実態経済の悪化が懸念され、原材料価格の高騰は世界経済の成長制約として大きな影響を与えつつあるとも見える。
 但し、このような下村の「日本経済学」の理論的側面を重視した解釈は実りの多いものではないだろう。むしろ今必要なのは、下村の「経済成長論」の背景にある人間観や歴史観の重視−つまり人間の持つあくなき可能性を重視しつつ、皆が成長という果実を実感できる経済の姿を実現するためのポジティブな側面を持った「新たな成長論」という視点ではないかと思う。
 「新たな成長論」を模索するにあたっては、まず我が国の経済の現状を、「失われた十数年」の政策的失敗を含めて総括し、「失われた十数年」で失われた要素を明らかにすることが必要である。その際には供給側の視点としては潜在成長を支える要因である労働力をいかに効率的に生かすことが出来るか、資本増強と維持をどのような形で行っていくべきか、生産性を高めるために必要なことは何か、を分析した上で、悲観的視点にとらわれずに冷静な観点にたって潜在成長を見極めることが必要だ。我が国の経済政策における失敗は、「規制緩和構造改革」という名の下に供給側の側面にたった改革が唱導され、その過程の中で有効な総需要刺激策が採られなかったという側面が挙げられるだろう。「国内経済の均衡」を達成するには、総供給にあわせた総需要の拡大が必要である。この点もあわせて考慮すべきである。さらに、景気循環と成長経路とは密接に連動することも注意すべきだろう。
 さらに、下村が見ることが無かった日本経済及び世界経済の重要な環境変化である、貿易・資本・労働・金融・そして市場の国際化・統合化の過程を考慮にいれる必要があるだろう。下村の視点は、「国際均衡と国内均衡との同時的実現」を日本経済を主体にしてみるというものであったと思う。寧ろ現代において必要なのは、「国際均衡と国内均衡の同時的実現」を世界経済を主体として見、その中で下村の「経済成長論」における人間観や歴史観を踏まえつつ、日本経済を捉える、というものではなかろうか。