「経済学的発想」と「反経済学的発想」という枠組みがもたらすもの

 野口(編)「経済政策形成の研究」第八章に所収されている松尾匡教授の論文「「経済学的発想」と「反経済学的発想」の政策論−マルクス経済学から」は、「経済学的発想」と「反経済学的発想」の相違をマルクス経済学の立場から描いたものである。勿論マルクス経済学は、古典派経済学に対する反論として創造された学問であり、「経済学的発想」に立ったものである。自分自身はマルクス経済学をまともに学んだことも無く、その意味でかなり不安だが、松尾論文から印象的な部分三点をまとめつつ感想を書いてみることにしたい。

1.「経済学的発想」・「反経済学的発想」
 松尾教授は、経済学の考え方を受け付ける人と受け付けない人には特徴的な思考方式が存在すると論じる。それが「経済学的発想」と「反経済学的発想」であり、以下のとおりである。経済学的発想からみていくと、自律運動命題は有名な「見えざる手」の発想が代表的だろう。もしくは「合成の誤謬」もそうだし、インセンティブを通じた経済行動の視点も当てはまるだろう。パレート改善命題や厚生の独立性命題は完全競争下での市場を通じた競争がパレート効率性の状態をもたらすという厚生経済学の定理といったところが挙げられるだろう。反経済学的発想はこれらの経済学的発想とは対立する概念である。松尾教授が言うとおり、古典派から現代の経済学に至るまで、経済学はこの経済学的発想にたっていることをまず確認すべきだろう。そして、経済学の歴史とは反デューリング批判、重商主義批判といった形で反経済学的発想に基づく議論に対する批判の学として鍛え上げられてきたのである。

経済学的発想の典型的構造

1)自律運動命題:経済秩序は人間の意識から離れて自律運動した結果である。これを人間が意識的に操作しようとしたら、しばしばその意図に反した結果がもたらされる。
2)パレート改善命題:取引によって誰もがトクをすることができる。
3)厚生の独立性命題:他者と比べた厚生の優劣よりも、厚生の絶対水準の方が重要である。

反経済学的発想の典型的構造

1)操作可能性命題:世の中は、力の強さに応じて、意識的に操作可能である。
2)利害のゼロサム命題:トクをする者の裏には必ず損をする者がいる。
3)優越性基準命題:厚生の絶対水準よりも、他者と比較して優越していることが重要である。


2.「経済学的発想」・「反経済学的発想」と「市場主義」・「反市場主義」
 松尾論文の指摘は「経済学的発想」・「反経済学的発想」の区分に留まらない。さらに興味深い指摘は、経済政策論が受容されるメカニズムを考えるにあたって、「経済学的発想」・「反経済学的発想」と「市場主義」・「反市場主義」という区分けが混同されて論じられているのではという指摘である。松尾論文中の「経済学的発想」・「反経済学的発想」と「市場主義」・「反市場主義」との関係を参照すると、以下のような形となる。

 それぞれについて付言すると、スミスやリカードといった古典派、後に続く新古典派は経済学的発想に基づく市場肯定派に位置づけられる。
 マルクス・エンゲルスの搾取論や階級論は、市場に参加するプレイヤー間に対立図式が存在しているといった反経済学的発想には立脚していない。マルクスエンゲルスの思想は、新古典派がイメージする市場メカニズムの姿が短期的な動揺を均した長期均衡状態を表しており、現実の資本主義経済は絶えず不均衡的な動揺にさらされているのである、と喝破したわけだ。その意味で経済学的発想に即したものである。
構造改革」主義者の主張は、世の中は弱肉強食の競争社会であり、だからこそ競いあって生産性を高めれば世の中は進歩していくという発想に立っている。勝ち組に食い物にされたのが悪い。負け犬ならば再チャレンジで強くなれ!というものだ。これは反経済学的発想に立つ市場肯定派としての思考だろう。
 最後に多くの左派経済論者は反経済学的発想の市場批判派に位置づけられる。つまり、市場というものは強者が弱者を都合の良い風に操作するための道具であり、だからこそ国家権力により強者を上回る力をもって経済を操作し、庶民にとって公正な社会を実現すべきなのだという発想だ。
 以上の二つの枠組みで経済政策に関する思想を区分してみると、興味深いことがわかる。例えば、「構造改革派」と左翼の共闘といった話である。市場に対するお互いの立場は異なるが、なぜ共闘するのか。それは反経済学的発想という軸で結びついているためだ。
 このような共闘状態は経済格差の高まりにつれて解消されてきているが、松尾教授は「今後国内問題については弱肉強食を止めて競争を抑え格差を是正しつつ、国際関係は元々弱肉強食の世界なのだから他国を食い物にして自国の利益を追求しよう」というより悪質な共闘関係が成立するのでは、と論じている。勿論これは主張する人間の意図に反した結果をもたらす。なぜなら反経済学的発想に即しているからだ。「低金利アメリカに資金を流すための陰謀」、「禿鷹ファンドが跳梁跋扈する」といった議論は左右共通する議論だが、国内経済と国際経済との関わりについての左翼と右翼の共闘議論が影響力を持つようになるという状況は恐ろしいものを感じる。

3.「経済学的発想」と「反経済学的発想」の変容とその受容
 「経済学的発想」と「反経済学的発想」の枠組みで考えた場合、松尾論文では、19世紀は「経済学的発想」が通用した時代であり、「反経済学的発想」で考えるような特定効果を狙った政策を行っても長い目でみれば持続することは無かったが、20世紀は「国家独占資本主義」が貫徹した社会であり、「反経済学的発想」が支配した時代だと述べている。つまり、独占資本家が国家と市場をいいように支配して大衆を食い物にしようとするのに対抗して、団結して市場と国家をコントロールする力を手にするべきだ、独占資本に我慢を強いることで福祉を高めようというわけである。
 さて21世紀はどうだろうか。21世紀はグローバル化の時代である。グローバル化はカネ・モノ・労働・資本が国境を越えて自由に移動し、経済的な統合が進むことをさす。この時代にあっては「反経済学的発想」に基づく政策は20世紀と違って影響力を持ち得ない。なぜなら、グローバル化によって独占企業が市場支配が利きにくくなるとともに国家による経済操作も独占企業の意思に沿った形で行わざるをえなくなるためである。企業の意思に反する政策(例えば法人税増税)を行ったら国内から企業は逃げ出してしまうかもしれないし、海外から有力な企業が立地することはなくなってしまう。さらに財政支出財政赤字が累増し、利子率が上がるということになれば投資コストが高まるため企業は海外への設備投資を進めるだろう、増税で賄おうとすると企業や高額所得者は税の安い国に逃げてしまう、というわけである。
 ただし話はこれで終わらない。以上の認識から政府が行う経済政策はケインズ的な財政支出策ではなく「経済学的発想」に基づく規制や介入の撤廃と市場活動の自由化の推進が提唱されたのだが、それが世間に受容されて「政策」として実現したときにこの転換は「反経済学的発想」に基づいて解釈されてしまったのである*1
「経済学的発想」に基づく「競争のイメージ」は資源配分の効率化をもたらすが、「反経済学的発想」のフィルターを通してみた段階で、敗者にもひとところにしがみついて挽回に励むことを強い、その挙句脱落した者を落伍者とみなす言葉に変換されてしまった。さらに「経済学的発想」に基づく「効率のイメージ」はパレート効率性に即して、全ての人の境遇が改善される方法があるのであればそれを実現すべきということを意味する。しかし「反経済学的発想」のフィルターで通してみた段階でモタモタしている者を切り捨てて、効率を上げろという言葉に置き換えられてしまったのだ。

4.感想
 以上、「経済学的発想」と「反経済学的発想」の政策論と題した松尾教授の論文の印象的な箇所を纏めてみたわけだが、個人的には三度ビックリ!の論文だった。
最初の驚きは「専門知」と「世間知」を「経済学的発想」と「反経済学的発想」という区分けで議論した方がすっきりするのではという指摘である。これは先にエントリした浜田教授の論文に即してみると、「専門知を有する人間でも反経済学的発想を有する人間は当然ながら居るのだ」という視点にも繋がり、さらに「世間知を有する人間でも経済学的発想を有する人間は居る」ことも否定しない。この視点は説得を行うという行為を考える際にも示唆に富むだろう。
 二度目の驚きは、「経済学的発想」と「反経済学的発想」の軸と「市場肯定」と「市場批判」の軸で政策論を整理すると右派と左派の共闘や「市場肯定」と「市場批判」の二軸では上手く腑分けできなかった議論が上手く腑分けできるという点である。「市場肯定」と「市場批判」という軸で分ければ、構造改革派とリフレ派の対立軸は一般の目でみると分かりにくいのではないかとも思う。但し、「経済学的発想」と「反経済学的発想」というもう一つの目で見ればたちまち議論はすっきりする。競争を重視し弱者を切り捨てる冷たい市場主義者=経済学者という視点は誤りなのだ。
 三番目の驚きは、「経済学的発想」と「反経済学的発想」の変容と受容のダイナミズムだ。松尾論文では、現実の「新自由主義」政策は「反経済学的発想」に基づいて遂行されてきたものと論じている。「経済学的発想」に基づく政策の必要性に基づいて選択された政策が受容されるにあたり、「反経済学的発想」に変容してしまうというくだりは大変興味深い。
 経済学的発想=正統派経済学の思考は市場メカニズムとどのように向き合ってきたのだろうか。この区分けの際の考え方は様々なものがあると考えられるが、私がイメージしたのは辻村江太郎「経済政策論」(筑摩書房*2 で展開されている古典派・新古典派ケインズマルクスの問題意識を「交渉の地歩」で区分したエジワースボックスダイアグラムで示した以下の図表である。

 この図表では主体AとBの無差別曲線が作図され、初期保有点に基づいてパレート効率性を満たす点において取引がなされる。エジワース的な競争均衡のイメージに立つと、競争に参加する主体が多数を占めると可能な契約の領域(コア)が縮まっていき、多数の参加主体が存在する場合には競争均衡は一点に定まることになる。この図表は通常用いられるエジワースボックスが主体Aと主体Bが生存に最低限必要な初期保有量(XminとYmin)を境界としてα、β、γ、δの4つのゾーンに区分されていることが特徴である。辻村「経済政策論」では、スミスはα、β、γ、δの全ての領域を考慮した市場メカニズムの視点を抱いていたが、リカード以降の古典派及び新古典派は取引の際の初期保有点が最低限必要な初期保有量以上の領域であるαゾーンを主題としていた。βゾーンは競争に参加するどちらかの主体の初期保有量が最低限必要な初期保有点(XminとYmin)を下回るという状態である。この場合は初期保有量を下回る主体とそうでない主体との間に「交渉上の地歩」(バーゲニングポジション)の相違が生じるため、エジワース的な競争均衡がパレート効率点を見つけることが不可能となる。例えばβaゾーンの場合、主体Aは財Yについて最低限必要な初期保有量を下回る量しか有していない。この場合にはAにとっての無差別曲線を書くことができず、βaゾーンに落ち込む限り市場メカニズムが働かない。
 このような理解に即してみると、バーゲニングポジションに著しい差が市場メカニズム内部に包含されていることをマルクスは捉え、リカード以降の古典派・新古典派の思考を批判したとも解釈できるし、ケインズはβゾーンの存在を考慮してβゾーンからαゾーンへの復帰を意図する総需要管理政策の必要性を唱えたに違いないのだ。又、δゾーン、γゾーンに初期保有点が陥る際にも政策介入の余地が当然ながら生じることになる。格差の高まりは正常な市場メカニズムを働かせる余地を失わせていく。だからこそ政策の介入する余地がある。格差社会や貧困といった話題に強みを有するのはマルクス経済学だとは言われるが、それは「経済学的発想」に基づくマルクス経済学の視点だろう。そしてそれは古典派や新古典派ケインズ経済学といった「経済学的発想」に基づく理論と補完的なのだろうと思う次第である。

*1:なぜこのように解釈されてしまったのかのヒントは第一章から第五章の議論にあると思います

*2:旧ブログでは何度も取り上げていたのですが、私の中でなぜ経済政策が必要なのかという視点はこの本と大学で受けた黒田昌裕先生の講義が強烈なものとして印象に残っている次第でして。詳細は辻村「経済政策論」を御読み頂ければ幸いです。含蓄あります。