米国の経常収支赤字拡大について

 米国の経常収支赤字が拡大している。最近の統計をみると、四半期データでみた場合のGDPに占める経常赤字のシェアはプラザ合意時点(1985年第2四半期)の2.8%のラインを1999年第2四半期に超えて増加を続け、直近の2006年第1四半期時点では6.7%、経常赤字額は8,686億ドルに達した。また米国の対外純債務も急激に拡大を続けており、対外債務の返済可能性プラザ合意時における経常収支の急激な高まりは為替レート(名目、実効ベース)の減価の進行が若干のタイムラグを通じての経常収支の減少をもたらすことで収まったが、今回の米国経常収支の拡大は持続可能なのかという点は興味ある所である。
 以上のような経常収支の高まりが持続可能なものであるかどうかについては以下の論点があるだろう*1

  • 米国の経常収支赤字がこのまま拡大し続けた場合、将来的に米国は対外債務を返済することが可能なのか。
  • 現行の経常収支赤字がサステイナブルでないと判断された場合、ドルの大幅な下落は生じるのか。
  • 米国の経常収支赤字の減少が米国経済もしくは世界経済に与える影響をどう評価するのか。

以下ではこれらの3つの論点について既存の研究を整理すると共に、米国の経常収支赤字を支えている東アジア諸国の対応(為替協調)の可能性の議論について感想を述べてみることにしたい。

1.米国は対外債務を返済することは可能なのか。
 Edwards(2005)では、実質実効為替レートと経常収支バランス、対外純債務残高の推移を概観した上で、他国とのポートフォリオに着目しつつモデルを構築し、シミュレーションを行っている。彼は1970年以降の先進諸国の経常収支のレベルは名目GDP比で見た場合、0.6%の黒字であると報告している。また、多くの研究では経常収支赤字が対GDP比で4〜6%のラインに到達すると急激な反転(経常収支赤字の縮小)が生じる可能性が高いと結論づけている。
ではなぜ現状米国の経常収支赤字は高い水準を維持することが可能なのだろうか。Eichengreen(2006)は、現在成立している世界的な不均衡状態についていくつかの見通しを述べている。Eichengreen(2006)によると、標準的な経済学に基づけば米国の経常収支赤字は維持可能でなくいずれ修正を迫られるだろうが、米国内の投資収益率の高さ、米国の高い対外投資収益率*2、米国の対外資産と負債との収益率の差を考慮すると、経常収支赤字は標準的な理論が想定する程維持不可能とは言えないと述べている。

2.ドルの大幅下落は生じるのか。
 現状の経常収支赤字の状況が「維持可能でない」場合には、為替レートの調整が不可避となる。以下、この場合についてどのようなことが既存研究から言えるのか整理する事にしよう。

(1)弾力性アプローチ
?輸出入関数の計測とマーシャル・ラーナー条件

 弾力性アプローチに基づけば、経常収支が改善するには実質為替レートの減価が必要となる。これは、金融政策により物価が安定的であれば名目ベースでのドル安が生じることと同義だろう。
 実証分析では、輸出入関数を価格効果、所得効果の2つの要因で決まるものとして定式化した上で価格弾性値、所得弾性値を計測し、マーシャル・ラーナー条件や輸出入関数の所得弾性値の対象性の有無をみる事*3はG7各国についてVECMに基づいて長期パラメータ、短期パラメータを求めているが、報告されている輸出入関数の長期価格弾性値の和は1.8(輸出価格弾性値1.5、輸入価格弾性値0.3、両者とも5%有意)であり、マーシャル・ラーナー条件を満たしている。また、輸出所得弾性値0.8、輸入所得弾性値1.8であるため、所得弾性値の対称性は満たしていない。短期の輸出入関数の価格弾性値は長期のそれよりも低くなり、マーシャル・ラーナー条件を満たさないが、短期的な輸出入の変化は長期的には均衡に向かっていく。
Chinn(2002)は米国についてVECMに基づいて輸出入関数を計測している。計測期間は1975年〜2001年であり、実質為替レートとしてa)FRB公表値(CPIデフレート)、b)J.P.Morgan公表値(PPIデフレート)、c)ユニットレイバーコストでデフレートした実質為替レートの3つを当て嵌めて計測している。Chinn(2002)は2001年までのデータを含めると輸出関数についてはパラメータが有意となるものの、輸入関数の価格弾性値は有意とはならない事、但し2000年以降価格変化が著しいIT関連財を除くと輸入関数も有意に推計でき、かつマーシャル・ラーナー条件を長期において満たす事を指摘している。Chinn(2005)は2004年第4四半期までデータを延長した上で計測を行っているが、2000年以降価格変化が著しいIT関連財、石油製品を除くと輸出入関数の弾性値の係数は有意となり、マーシャル・ラーナー条件は満たされる。
以上の最近の計測結果からはドルの下落が経常収支赤字を縮小させる方向に働く可能性が高い事を示している。但し輸出と輸入の所得弾性値の対称性は満たされておらず輸入の所得弾性値の方が輸出のそれよりも大きいことを考慮すると、現状の経常収支赤字を大幅に減らす為にはより大規模な為替レートの減価が必要となるだろう。

?為替レートのパススルー率の推移とマクロ経済
 上記の議論にあわせて米国の経常収支赤字が維持不可能であり、かつ調整の為に為替レートの大幅な減価が不可避である場合、問題となるのはそれが国内物価にどの程度影響するのか(パススルー率)という点だろう。パススルー率に関する研究は古くて新しい話題でもある。例えば『経済分析148号』(経済企画庁経済研究所)では80年代〜90年代半ばの我が国の円高と国内の価格変化とがどのような関係にあったのかを価格調整がスムーズに進展していたかどうかという観点*4に立って分析している。
90年代半ばまでの研究では為替レートの変化が企業の輸出価格設定にどう影響するのかを分析するものが主であったが、2000年代に入るとTaylor(2000)は国際的な競争圧力の高まりや低位かつ安定的なインフレといった近年の経済環境の中では企業は為替変動を輸出価格に転嫁出来ず(つまりパススルー率低下)、結果としてインフレの低位安定と企業の価格設定との間に好ましい循環が働くと推論している。
為替レート変化が輸入物価に及ぼす程度に関する実証分析の動向をみていくと、先駆的な研究としてCampa and Goldberg(2002,2005)が挙げられるだろう。彼らはOECD諸国について為替レートの輸入物価へのパススルー率を推計しているが、90年代においてパススルー率は低下していることを論証しており、その低下の理由として原材料の輸入比率の低下および製造品の輸入比率の上昇が世界的に生じたこと(輸入構造の変化)を指摘している。大谷・白塚・代田(2003)は我が国における輸入物価への為替パススルー率の計測を行っている。彼らはCampa and Goldberg(2002,2005)において指摘された90年代のパススルー率の低下が90年代を通じて徐々に低下したのか、もしくは急激に低下したのかを検討するため、ローリング推計を行っている。彼らの結論は、a)我が国におけるパススルー率の低下は80年代以降から生じており、特に92年から98年にパススルー率は急激に低下し98年以降はわずかに低下する形で推移していること、b)パススルー率の低下はCampa and Goldberg(2002,2005)における輸入構造の変化が原因ではなく、個々の輸入財のパススルー率が全般的に低下した事が原因であること、c)98年以降の世界的なディスインフレ期においてもパススルー率はわずかに低下しているが、92年から98年におけるパススルー率の低下と比較すると小幅であり世界的なディスインフレのパススルー率に対する寄与はかなり小さい、というものである。
「新しい開放マクロ経済学」に基づく議論も盛んである。例えばObstfeld and Rogoff(1995)は輸出業者の価格設定が自国通貨でなされる場合には輸入物価に対するパススルー率は完全となり、結果として為替レート変動は経常収支不均衡や景気循環を調整するように働く。一方で、輸出国通貨建てで価格設定を行う場合には為替レートのパススルー率は限定的となり、為替レート変動が経常収支不均衡や景気循環を調整する機能を持ち得ない事を示している。
Obstfeld and Rogoff(1995)の議論からは基軸通貨国である米国の為替レート変動は経常収支不均衡や景気循環を調整するように働き、90年代以降のパススルー率の低下という実証結果と合わせて考えると、経常収支赤字を調整するために必要な為替レートの減価は大規模なものになるという推論が成り立ちうる。五百旗頭(2005)は硬直価格・動学的一般均衡開放マクロモデルに基づいて、米国経常収支赤字が縮小する際に起こりうる名目ドル為替レートの動きを考察している。彼はObstfeld and Rogoff(2004)の経常収支赤字の対GDP比がゼロ%となるにはドルの20%〜40%の実質減価は避けられないとする主張に対して、近年のパススルー率の低下が経常収支赤字縮小に付随する名目ドル安を軽微にとどまらせる可能性があることを示しており*5、将来的な大幅なドル安の可能性をむやみに訴えることはかえって外国為替市場を不安定にさせると指摘している。

(2)ポートフォリオ・バランス・アプローチ
ポートフォリオ・バランス・アプローチに基づいてドル安の必然性が主張される根拠は資産保有のホーム・バイアスだろう。つまり各国の投資家は自国資産の保有比率を高く保つ傾向がある。米国経常収支赤字の高まりは米国以外の地域の投資家が持つドル建て資産シェアの高まりをもたらすため、資産構成を彼らが考慮する望ましい水準に変化させようとするのであればドルの減価は避けられない。またドル建て資産の積み上がりは、ドル建て資産に対するリスクプレミアムを上昇させ、ドル建て資産から他国通貨建て資産へのポートフォリオ・シフト、ドル安をもたらす可能性がある。ホーム・バイアスの存在にもかかわらずドルの減価が生じない理由の説明としては、グリーンスパン前議長により指摘されたホーム・バイアスの世界的低下という現象が挙げられるだろう。但し、Higgins-Klitgaard(2004)によると民間資本に関してはドル建て資産から他通貨建て資産へのポートフォリオ・シフトが生じており、現在は日本・中国など東アジア諸国の公的資本が米国の経常収支赤字をファイナンスする構図となっている。アジア各国がインフレリスクを懸念してドル介入を止めざるをえない場合、外貨準備に占めるドル資産の比率を低下させる場合、ドルが急落する可能性も否定できない。

3.米国経済もしくは世界経済に与える影響をどう評価するのか。
 最後の論点は、米国の経常収支赤字の減少が米国経済および世界経済に与える影響をどう評価するのかという点である。米国経済への影響としては、米国への資本流入の減少を発端としてドル金利が急上昇し投資・消費が急減し、さらに米国経済は現状世界経済の牽引役であるため、牽引役が倒れればその他の国にも悪影響が及ぶという見方(Eichengreen(2006))に対して、ドル安に伴う生産刺激効果を重視し、米国経済の受けるダメージは軽微である(Blanchard et al.(2005))との見方もある。さらに米国の経常収支赤字は発展途上国にとって経済成長に必要な需要を創出する為に必要な要素であるという見方もあり、議論は百花繚乱の様相を呈している。

4.感想
 過去最高を記録している米国経常収支赤字を巡っての議論を簡単に敷衍してみた訳だが、米国が他国よりも高い経済成長率・生産性を維持し続けるという状況の下では現状のまま推移していくとみるのが一つの考え方だろう。
 一方、長期的には米国の経常収支赤字の削減や為替レートの減価が生じる可能性もある。米国為替レートの減価はとりもなおさず我が国にとっては円高要因となり、またドルをターゲットとした為替レートを維持している国々は変動相場制を採用している国と比較して減価する可能性もある。
以上の可能性の中、為替政策に関して東アジア域内での共通バスケットの採用についての議論が一橋大学小川教授をはじめとするRIETIのエコノミストを中心になされているが、この構想は今後の我が国の政策レジームとして好ましいものなのだろうか。もしくは実際に可能なのだろうか。通貨バスケット制の採用については単一通貨に対するペッグと比較して通貨変動が抑えられる事、為替介入の際の負担を減らすといったメリットがある点は知られる所だが、以下、実行可能性について考えてみたい。
 まずこの点については一つ目の疑問点として東アジア域内での共通バスケット制が将来成立可能なのかという点がある。周知の通り我が国と東アジア諸国との間のFTA交渉は進められているものの、労働(ヒト)・資本といった要素移動を含む自由化の推進に際してはこれからの検討課題となっている。経済統合がAppleyard and Field(1992)が言うところの自由貿易地域*6、関税同盟*7、共同市場*8、経済共同体*9という形で段階的に進むと考えるのならば、我が国がこれまで締結したFTAは経済統合の第一段階である自由貿易地域に相当する。梶ピエール先生が指摘するように東アジア通貨圏に関する議論は、現状の東アジアの経済統合が初期段階に留まっている以上、要素移動の自由化に関する合意や域内の制度調和、そして大きな経済格差の存在といった他に乗り越えるべき障害の後に(仮に行うのであれば)俎上に挙げられるべき話題だろう。
 さらに小川教授も指摘している点だが、通貨バスケット制を採用するといった場合においても「通貨バスケット制を採用する」と「通貨バスケット制を参考にする」とでは国内の金融政策の自立性と通貨政策の透明性に与える影響も大きく異なりうる。当然ながら固定通貨制を採用する場合と管理フロート制においても影響は異なるだろう。各々の可能性について周到な議論が必要となる。
三点目の疑問点は小川教授らが作成しており、定期的に更新がなされているAMU乖離指標についてである。小川教授は東アジア通貨の加重平均値としてAMUを推計しているが、基準とすべき通貨水準をどの水準に置くのかで各国の政策対応は当然ながら異なりうる。 AMUで指摘されている現在報告されているAMU乖離指標をみると、乖離幅は各国において異なっており±5%台の乖離幅の国もあれば±20%台といった大幅な乖離幅の国も存在する。乖離幅の大きい国がベンチマークとなるAMUに通貨を近づける際にはより多くのコストが必要となる訳だ。政策協調が行いやすい点が共通バスケット制のメリットであるが、ある国について過度な負担を及ぼす可能性がないかを吟味する必要があるだろう。

参照文献(掲載順)

*1:論点等の多くの箇所について五百旗頭(2005)を参照

*2:吉冨(2006)にも同様の記述あり。これは米国の対外投資の大半が収益率の高い株式投資や直接投資から成っているため。

*3:Houthakker and Magee(1969)))がまず挙げられるだろう。 最近年の研究を挙げていくと、例えばHooper et al(1998)、Chinn(2002、2005)、では、輸出と価格(実質実効為替レート等)および海外所得、輸入と価格(実質実効為替レート等)および国内所得との長期的関係(共和分)を確かめた上で、これらの変数についてのVECM(ベクトルエラーコレクションモデル)を作成し、長期パラメータ、短期パラメータを計測している。 Hooper et al(1998)((価格として実質為替レートではなく自国と海外との相対価格を用いている

*4:換言すれば内外価格差が縮小するのかどうかといった観点

*5:モデルの詳細は五百旗頭(2005)。動学的一般均衡モデルで考えた場合、自国財・外国財間の代替弾力性と消費の異時点間代替弾力性が小さいのであれば、パススルー率低下は経常収支赤字縮小に伴う名目減価の度合いを低下させる

*6:地域内で関税その他の貿易障壁が撤廃された段階

*7:貿易障壁が取り除かれ、地域外に対して共通の通商政策がなされる段階

*8:関税同盟に加えて生産要素の多国間移動を自由化した段階

*9:共同市場に加えて経済関係機関の統合や経済政策の密接なコーディネーションがなされる段階