伊東光晴『現代に生きるケインズ−モラル・サイエンスとしての経済理論』を読む

 本書は「一般理論」刊行から70年が経過した現在において、何が問われるべきかを論じた本である。言うまでもない事だが、著者は我が国のケインズ研究の第一人者であり、岩波新書としては40年前に「ケインズ−新しい経済学の誕生」を著している。また宮崎義一氏との共著であるコンメンタール、さらに本書の中で度々言及がなされている浅野栄一氏の「ケインズ「一般理論」形成史」もケインズ「一般理論」を把握するには必須の書籍であり、学生の時に何度も読んだ記憶がある。
 第一章はケインズが「モラル・サイエンスとしての経済学」を意識していたという点について言及されている。つまりケインズはスミスからマーシャルに至る、経済学を道徳科学の中に位置付けつつ、さらに科学を自然科学と道徳科学の中に位置付けるというイギリスの伝統的学問論の上に立つものと認識していたという視点である。この点を明確にするため、氏はロビンズの「分配から配分へ」、「価値判断を離れた科学の領域へ」経済学を転換させるという試みや、ハイエク自由主義的な経済感との比較を元に議論していく。結論としては、経済学は自然科学ではなく「生身の人間を前提とした」道徳科学であり、人間の望ましい生き方の想定の上に立って、社会のあるべき姿を考え、それを実現する手段の学として有り得るものだ(つまりハイエクにとって重要視される「自由」は目的ではなくケインズにとっては望ましい社会を実現する為の手段である)、というケインズ解釈を展開する。
 第2章から4章はケインズが著した『一般理論』に関しては乗数、流動性選好説、そしてヒックスのIS-LM理論について言及がなされている。
 乗数に関しては、カーンおよびアメリカ・ケインジアンによる波及論的乗数理論*1ケインズの乗数に関する理解の相違が指摘される。つまり、アメリカ・ケインジアンが意図したような、「計画した投資が必ず実現し、全ての企業が需要増に対応して生産を行う」という限定された仮定の下で乗数理論が成立するという視点ではなく、ケインズは「一般的に観察されるマクロの経済法則」として乗数理論を捉えているという視点である。
 流動性選好説に関しては、まず利子の決定に関する古典派の理解に対して、ケインズの真意は「貯蓄は利子の関数ではない」というものであった点がクローズアップされ、その意味でハロッドやカーンの理解は誤りであると指摘されている。古典派が主張する利子は貨幣を使用することを諦めるコストと認識されており、氏は近年の貯蓄と利子の関係を見ても古典派が主張する「貯蓄は利子の関数である」という関係は成立していないと議論している。では、ケインズにおける利子はどのように定まるのか。氏は貯蓄と投資といったフローの関係において利子が定まるのではなく、流動性選好論は過去から貯えられた富(ストック)の変動に関係づけられていると論じる。ストックを評価するにあたっては価値変動という将来の不確実性に関する問題、そこから起因する予想の多様性が重要な要素であり、それこそが利子を決める要因となる訳だ。
 ヒックスのIS-LM理論に関する議論では、「一般理論」が意図する貨幣賃金(名目賃金)と物価水準との関係を軸に、IS-LM理論を「拡張された貨幣数量説」であると論じており、貨幣数量説を否定したケインズにとってはIS-LM理論は受入れ難いものであったとしている。つまり、貨幣数量を外生変数とした上で、所得と利子率を決定するのがIS-LM理論であり、貨幣数量が物価水準を決定するというフィッシャーの貨幣数量説、貨幣数量が所得に応じて決定されるとするケンブリッジ貨幣数量説、といった系譜に繋がるものと議論している。本書で展開されるIS-LM理論に対する批判については、私が語れる所はほぼ無いが、過去様々な経済学者による批判がなされているのは周知の通りである*2。本書の叙述を媒介に様々な議論を読むことでより一層理解が進むと思われる。
 最後に終章では、ケインズが考えた道徳科学としての経済学、ケインズの市場感、ホモエコノミカス批判の3つに節を区切りつつ、学説史のなかのケインズとして議論が展開されている。ケインズの市場感について論じた箇所では、氏がケインズの書き残した文書を推測しつつ議論がされている。ケインズは労働者間の賃金格差、金利格差、財の相対価格に着目した。そして新古典派的な一元論ではなく、多種多様なプレイヤーを前提としつつその総体としてのマクロ経済の振る舞いを議論した。ケインズの議論した時代は、供給の弾力性が高く、需要の弾力性が低いという世界であり、理論モデルで議論される独占的競争に従う世界であるという指摘はその通りだろう*3
最初にも書いたが、本書はケインズ没後60年、「一般理論」70年が経過した現代において、ケインズについての氏の問題意識を表明した本である。以上纏めた本書の内容については、わかりやすい叙述ながら自分のような非専門家にも理解可能な形で記述されていると思う。特に、ケインズが持っていた経済学感、道徳科学としてケインズ体系についてはより広く知られるべきだろうし、そこから何が得られるのかについて新たに得られた文献から研究していくのは有意義な試みだろう。
 但し、各章の随所に織り交ぜられている現代の経済・経済政策に関する見方については異論がある。
 例えば、第三章の末尾には、貨幣数量説に基づく通貨増減政策(量的緩和策?)について否定的な論説、つまり通貨増減政策は「インフレには効く(インフレ抑制効果はある)が、デフレには効き目が薄い」という学説史上の定説を知らず、90年代の日本の不況に際して貨幣数量の増加に不況脱出の政策手段を主張したテキスト・ブック・エコノミストがジャーナリズムを賑わしたとの記述がある。この点については、単純な通貨供給のみでは経済への影響は微少であり、通貨供給及び時間軸効果、金融政策を担当する日銀の括弧たるインフレへの信認こそがデフレ期待を克服させ、それが所得を増加させるという議論がなされていたという現状を考えると事実誤認だろう。三章の部分には、不況下の米国において貨幣増加政策は無力であったとの記述があるが、安達誠司氏の著作等で明らかな通り、当時のマネタリーベースと景気動向には緊密な関係があり、中途半端な金融緩和が一旦デフレから回復しかけた米国経済を再度デフレに陥らせる原因になったという指摘がなされている点をどう考えるのだろうか。
 本書を読むと、経済主体の最適化行動を前提としながらマクロ経済を議論していくというマクロ経済のミクロ的基礎という流れに対して批判的であるとも感じられる*4。例えば氏が言う、多元的な理論としてのケインズ体系にあって、ケインズは多種多様な個々の主体の活動の総体として成立する法則を追求していたといった箇所だ。現在のマクロ経済学はルーカス批判に耐えうる理論の要請という流れの中で、フォワードルッキングな期待形成を前提としつつ、将来の経済動向を見通した中で最適化行動を行うという主体を基礎に置きながらモデル構築が進められている*5。このような現代のケインズ経済学再構築の試みについて、氏はどのような感想を抱いているのか興味あるところである。

*1:産業連関表を用い、最終需要項目を内生化した波及効果分析とイメージは近いのでしょうか。

*2:この点についてはhicksianさんの一連のIS-LM理論に関するエントリを参照。勉強になります。http://hicksian.cocolog-nifty.com/irregular_economist/islm/index.html

*3:ただ別段主張としては新しみはない

*4:あくまで僕の感想です。念為

*5:無論、主体の行動が一様ではない設定でのモデル化もある。