小林慶一郎「市場経済は目的か手段か(前編)」を読む

 今週のMM日本国の研究で、小林慶一郎氏が「市場経済は目的か手段か」と題して論説を寄せている。小林氏はポスト小泉政権の鍵となる「構造改革路線の継承」とは何かという問いに対して、それは市場経済システムを豊かさを得るための「手段」と考えるのではなく、政治が目指すべき「価値」あるいは「目的」と観念するということではないか、そして市場経済システムをより良いものにする為には市場経済システムは決して完全無欠ではないという謙虚で注意深い認識が必要だろう、と主張している。
 
 具体的な内容に目を転じると、小林氏は1.市場経済自由主義の土台と題して、古典派・新古典派の経済学による「利己的な個人の自由な行動が市場経済システムを通じて社会全体の厚生を高める」という主張が自由が公共性を担保する根拠であると論じ、自由主義を標榜する小泉政権自由主義を正当化するシステムである市場経済システムへの支持を明確に打ち出した事が国民からの熱烈な支持を受けたのでは、と続ける。そして、2.自由主義市場経済システムへの強い信奉が果断な政策を可能にすると題して、90年代末の日本の政治風土は市場経済の原則を本気で信奉していなかったため金融危機をもたらしたのだ、一方で小泉政権による不良債権処理の断行は市場経済システムへの強い信奉によりもたらされた政策でありこれまでの政権が、豊かさを得るための「手段」としてきた市場経済システムを、初めて政治の「目的」に据えた点が小泉構造改革の真の意味だ、と結論づけている。
 
 小林氏の論説には(後編)があり、そこで何が論じられるのか興味深い所である。小泉政権の評価として「構造改革路線」の正体が「市場経済システムを政府が目指すべき「価値・目的」とした事」という小林氏の主張には同意だが、問題は政府が「市場経済システムを価値・目的とすべき」とすることが望ましいのかどうかという視点だろう。

 (後編)での議論で具体的に議論されるのかもしれないが、当然ながら市場経済システムは決して完全無欠ではない。古典派・新古典派の経済学は個人の利己心に基づく経済活動が社会全体の厚生を効率性の概念に沿った形で最大化することを主張したが、重要な点はこの「社会厚生の最大化」は市場取引に参加する主体の所得格差を是正するものではないという点である。 *1また所得格差に極端に差がある場合、市場取引が上手く成立しないという点も指摘されるところである。
 
 現在生じているのは小泉政権の下で進められた「構造改革路線」、「市場経済システムを政府が目指すべき「価値・目的」とした事」の弊害である。但しこの弊害を緩和する政策として有効なのは小林氏が否定的に取り上げる有効需要策であろう。「市場経済システムを政府が目指すべき「価値・目的」とした事」という小泉政権の決断が功を奏したという小林氏の指摘は物事の一面に光を当てたに過ぎない。つまり、このような評価が可能になったのは、海外景気の好況、為替レートの円安といった対外環境の変化であり、その裏には不完全ながら作用した金融政策の影響が大きいのではないのだろうか。さらに言えば、以上の「幸運な偶然」というべき緩やかな景気回復が日本経済に訪れなければ、市場経済システムを政府が目指すべき「価値・目的」としたという点に対しての小林氏の好意的な評価は成り立たないのではないか*2
 
 このように考えていくと、小泉政権後の政権にとって必要な視点は「市場経済システム」を「目的」とするか「手段」とするのかといった二律背反的な視点ではなく、「目的であり手段」である「市場経済システム」とどのように接していくかという視点である。まさにこれが小泉政権後の政権において求められることではないだろうか。

*1:この点の詳細な議論は辻村江太郎「経済政策論」筑摩書房に詳しい。付言すれば同書ではケインズ的な有効需要策が格差を解消するメカニズムが描かれている。さらに以前エントリした記事(http://ameblo.jp/econ-econome/entry-10004012887.html)も宜しければ参照下さい。

*2:念の為ですが、当然ながら私は小林氏とは違って否定的な評価です