「あたりまえのこと」に抗する

真実を口ずさむ時、それは「大声」でなく「小声」でなされなくてはならない。なぜかと言えば、真実は口に出したその刹那、雲散霧消してしまうかもしれないからであり、それが「あたりまえのこと」であったとしたら尚更だ。以下、ある経済学者の言葉*1から印象的な箇所を小声でピックアップしつつ、本田先生が展開されている「あたりまえのこと」に抗してみることにしたい。

 資本主義は、しばしば効率的な制度であった。・・・この制度のもとでは、失業状態をきわめて悲惨なものにしたから、人々は、わずかの収入を稼ぐために、必要とあれば日に何マイルを歩いて職を探したものである。
 今日では、われわれは、このような徹底した無慈悲さをゆるさない。今日われわれは、負の所得税制度はまだ持たぬにしても、失業補償、退職手当、公共的雇用計画、生活保護等の制度をもっている。そして、ほとんど誰も、純粋資本主義の古い無情な体制へと時計の針を逆戻りさせようとは言わない。
 過去と同じだけの賃金物価抑制効果を持つためには、今日ではますます大量の失業を必要とする状態になっている。かくして、一つの悪循環なのだが、現代の混合経済は、失業率がいやましに高くなる事態に直面しているのだ。
 そこにある教訓は何であろうか。再び無慈悲になれということであろうか。いずれの新しい改革もが、その便益と並んでなにがしかの費用を伴うことに、目をつぶれということであろうか。
この二つの代案のいずれも、われわれに開かれている選択ではない。私は思うのだが、ここにある教訓は、辛抱強く構造改革を図って、一方では人道主義の体制を保持し増強すると同時に、他方では、経験により効率と安定性の両者の達成が可能とみられる市場支配のメカニズムを生かすよう、われわれの制度を育成していくという点にあるだろう。
 政治経済学の課題は、いつまでも終わらない。(By ポール・サミュエルソン

政府の介入や干渉のいっそうの増大を、という大きな運動は、何か悪いことをしてやろうという、邪悪な意図をもった人びとによって、もたらされたものでは決してありません。政府による統制活動が、大幅に増大してきたのは、善意に満ち満ちた人びとが、社会のために善いことをしようとした結果、生み出されてきたのです。これらの人びとの善意や、これらの人びとが追求した目的がよいものであった点に関しては疑問の余地がありませんが、かれらがそのために採用した方法が誤ったものであったというところに、問題があったのです。すなわち、簡単にいえば、これらの人びとは、善いことを達成するのに、自分たち自身のお金によってではなく、他人のお金でやろうとしたところに、問題があったのです。
このやり方には、基本的にいって、二つの欠陥があります。その第一は、人びとが他人のお金を、自分のお金ほど注意深く使うことを、期待することは不可能であって、したがってそこには不可避的に浪費が発生する、ということです。その第二は、第一に劣らず重要なことですが、他人のお金に依存しようとするかぎり、結局は権力ないし警察力を行使しなくてはならなくなる、という点です。この権力の行使こそ、実は「あたりまえのこと」の最も奥深い底に、ひそんでいるものです。
(By ミルトン・フリードマン、太字箇所のみ変更。元は福祉国家主義)

*1:根井雅弘「物語 現代経済学」中の経済学者の言葉を引用