求められる人とは
以下、mixi日記で書いたのを転載。エントリに特に意味はなし。
先日取り上げた「気概の人 石橋湛山」。示唆に富み面白い本ですが、この中で湛山が年賀状代わりに福沢諭吉の「縁の下の力持」に序文をつけてパンフレットを作ったというくだりがあります。
その序文の中で、「求められる人」とはどんな人かを、福沢の言う「縁の下の力持」だと喝破しています。政治・経済に関する卓見にはうならされること甚だ多しの湛山ですが、人生観といった点についても学ぶところが多いものです。 以下、少し長いですが「気概の人 石橋湛山」(小島直記)からの引用。
マルクス思想かぶれした人たちに批評させると、福沢のこの教訓(「求められる人」=「縁の下の力持」)は、資本家のため労働搾取のよい口実をつくったものだなどというかもしれない。
しかしそういうのは、多分自分では今まで人と仕事の労苦を分かった体験のない人である。どんな形の社会、事業でもそれを構成する人々の間に、たがいに縁の下の力持をする覚悟がないならば繁栄と成功は望めない。将来もし資本家なき社会が実現することありとせば、いよいよもって縁の下の力持は、その社会の最大の道徳でなければならない。
経験のない若い人の間には、この「縁の下の力持」という言葉の卑近さに軽蔑の念を抱き、それはなんでもないことだと思うものがいるかもしれない。しかし、これは数ある処世の心得の中でも履行至難の心得なのだ。もし四六時中この心得を忘れず行動できる人がいたら、それは「稀世の至人」である。
縁の下の力持は消極的態度のようだが、じつは積極的に自分のせいいっぱいの力をつねにだしてはじめてよくつとまることなのだ。
そこで、縁の下の力持を心がけた結果はどうなるか。社会は案外公平なもので、陰徳には必ず陽報がある。ただ、縁の下の力持は、もとより陽報を目的にして陰徳を積むものではない。陰徳を積むこと自体に満足を感じる。これは、なかなかむずかしいことだが、その心得でこそ、縁の下の力持になるのである。