「現代マクロ経済学における共通理解」とは何か(その1)

 野口(編)「経済政策形成の研究」第七章所収の浅田統一郎教授*1による「デフレ不況と経済政策」は90年代後半以降のデフレと並行して生じた不況の原因と処方箋に関する、多くの経済学者によってほぼ合意されつつある共通理解について論じた論文である。
 勿論、「マクロ経済学の共通理解」の中においても経済学者の間で完全に理解が一致しているもの、そうでないものが混在しているというのが現状だろうし、それは耐えざる新たなデータの洪水や経済学者のあくなき探求によって磨かれていくものだ。マクロ経済学の最前線に立つ研究者でもない自分が「現代マクロ経済学における共通理解」とは何かを判断しようなどと言うつもりは毛頭ない。ただ一方で、論文中で与えられたモデルについての議論が理屈に照らして正当か否かを判断することは可能かもしれない。このような視点に立ちながら、浅田論文の概要を自分自身が納得できる四つの点を中心に纏めつつ感想を書いてみることにしたい。(その1)では二つの合意点について紹介し、(その2)では残り二つの合意点と感想を書く予定である。

1.フィリップスカーブ is baaaaaaaaaaaaaaaaack!!
 まず論文では、ケインズ経済学が有するビジョンとして以下の4点が紹介されている。

ケインズ経済学が有するビジョン

i)有効需要の原理の成立*2
ii)非自発的失業の存在
iii)マネーサプライ等の金融的な要因は消費や投資といった実物的な側面に影響をもたらす
iv)公衆による期待形成、財政・金融政策の信憑性といった主観的要因がマクロ経済政策の有効性に大きな影響をもたらす

 ここで問題となるのが、iii)である。これは財政政策や金融政策が投資・消費・生産・雇用といった経済の実物面に影響を及ぼすことを意味している。これはフィリップスカーブが垂直か否かという点に直結し、垂直であるとするならばマネーサプライの増加といった金融政策は実物経済に何も影響を与えない(貨幣の中立性)ことになる。
70年代の失業率と物価上昇率がともに上昇するスタグフレーションの局面において、フリードマンは人々が物価上昇率を正しく予測し、市場メカニズムが働きうる長期においてはフィリップスカーブが垂直になると論じたが、ルーカス・バロー・サージェントらは合理的期待仮説に基づいて確率的攪乱を除けば短期的にもフィリップスカーブは垂直になること、つまり短期においても長期においても貨幣変化は実態経済に何の影響も与えないと主張した。つまり「ケインズ経済学」が有するビジョンの三点目が成立しなくなり、「ケインズは死んだ」と言われた訳である。
 しかし、80年以降の経済状況は70年代における状況とは異なっている。論文中ではCPI上昇率と完全失業率からフィリップスカーブを推計した原田(2003)が引用され、80年代以降においてフィリップスカーブが右下がりの関係にあることが論証されている。90年代半ば以降のフィリップスカーブは水平に近づいており、わずかな物価下落で失業率が大きく高まること、デフレからの脱却の局面では失業率が多少改善したとしても中々物価上昇に反映しないことも合わせて重要な点である。ちなみにフィリップスによるオリジナルの実証結果は賃金上昇率と失業率との間に右下がりの関係が成立するというものだが、これは以下のとおり80年代以降の我が国のデータを見ても成立している。

賃金上昇率でみたフィリップスカーブの推計

(資料)厚生労働省「毎月勤労統計」、総務省労働力調査

 つまり貨幣は物価水準や物価上昇率にのみ影響を与えるのではなく、生産・消費・投資・雇用といった実物経済に影響を与えうるというケインズの視点が成立していることになるわけだ。
 尚、期待がマクロ経済政策の有効性に大きく影響するというiv)については、以下の2.で確認していく。

2.「流動性の罠」は適切な金融政策により確実に回避できる。
 まず、標題の点を明確化するには、「期待要素を考慮した修正IS-LMモデル」を導入する必要があるだろう。これは、財市場のフロー均衡を示すISモデルに期待要素を加味し、貨幣市場のストック均衡を示すLMモデルとを連立させることで、今期の実質GDP(Y)と今期の名目利子率(i)が決定されるとするモデルである。尚、図中の変数の下についている+、−といった符号は消費・投資・貨幣需要に対して実質GDP(Y)や期待要素といった変数がどのような影響を及ぼすのかを示している。+の場合は、変数が増加することで消費・投資・貨幣需要が増加することを意味し、−の場合は、変数が増加することで消費・投資・貨幣需要が減少することを意味している。
 期待要素を考慮しないIS-LMモデルとの相違点は、a)消費が現時点で将来の実質GDPが増加すると予測された場合、期待物価上昇率が上昇した際に増加するという点、b)投資が将来の実質GDPの水準が高まった場合、さらに期待物価上昇率が高まった場合*3に増加するという二点である。

「期待要素を考慮した修正IS-LMモデル」

 以上の道具立てを元に流動性の罠の状況下の経済を解釈してみることにしよう。流動性の罠とは貨幣に対する需要が無限大となるため、マネーサプライをいくら増加させても即、貨幣需要に吸収され、生産・消費・投資といった実物経済に影響を与えられない状況を差している。これは名目利子率がゼロに限りなく近い状態と同義である。IS-LMモデルにおいてこれを図示すると以下の形となり、実質GDPと名目利子率はIS曲線とLM曲線の交点であるE点となる。

流動性の罠

 この図表から言える点は、流動性の罠の元では名目利子率を操作する(=マネーサプライを増やす)という通常の金融政策は無効であるということである。仮に上記の図表の状態から単にマネーサプライを増やしてみよう。するとLM曲線は右方にシフトしLM’曲線となるが、均衡点はE点であることには変わりがない。
 現実の経済に目を向けると、日銀はゼロ金利政策に踏み込み、さらに量的緩和策を実行した。これは金融機関への信用供与を通じたプルーデント効果以上のものはないと言われているが、上の図表に従えば確かにその通りである。
 ではどのようにしたら「適切な金融政策」で流動性の罠を回避できるのだろうか。それは、「期待」に働きかけることによってなされる。
 「修正されたIS-LM曲線」ではIS曲線に期待要素が折り込まれており、期待要素の好転はIS曲線を右方にシフトさせる。期待実質GDP及び期待物価上昇率が上昇すること、つまり「人々が今後の景気見通しについて楽観的となり、将来物価が上昇すると信じれば」IS曲線は右方シフトし、「流動性の罠」から経済は脱却し、実質GDP及び名目利子率はE’で均衡する。つまり期待が好転することで「流動性の罠」から脱却できるわけである。
 勿論、期待を好転させるためには何らかの仕掛けが必要だろう。それが「インフレーション・ターゲット政策」であり、中央銀行が正の目標インフレ率を明示的に掲げてアナウンスし、その実現に向けて信憑性のある形で(実際に政策を行うことを含めて)コミットすることである。

「期待の好転がもたらす効果」(E→E')と「期待の好転を伴う量的緩和策の効果」(E→E'')

「信憑性」を持たせるためのコミットメントには様々な方法があり得るだろう。一つは中央銀行が明確にデフレが悪であり、ターゲットとして設定したインフレ率を信認し、デフレからの脱却にコミットすることを宣言することである。デフレ不況の際にデフレを賛美したり、インフレは制御できないから危険が大きい政策であると発言したり、そもそもインフレターゲット政策を否定する発言を日銀総裁が行えば、「信憑性」は生じない。まさに日銀が量的緩和策を行った際には以上の状態に陥ったために大した効果が生じなかったのだ。
 では、明確なコミットメントにより期待を好転させ、かつ量的緩和を行えばどうなるのだろうか。その場合には以上の図表のように単に期待を好転させる以上の効果(E''点)をもたらすことになる。
 勿論、「修正されたIS-LMモデル」では、期待実質GDPや期待物価上昇率を通じた経路に加えて減税を行う、政府支出を増やすといった財政政策によってもIS曲線の右方シフトにより流動性の罠を脱却することが可能である。但し単に財政政策を適用するのみでは景気の下支え効果はあるかもしれないが、デフレを脱却し景気を好転させることが難しいことは失われた十数年において明らかではないだろうか。「実質質成長率は高まらないだろう、物価も上がらないだろう」という期待が働きつづけ資産価格の下落と相まって自己増殖的な期待の悪化が生じる段階では、IS曲線に対して左方シフトの圧力がかかり続けることになる。この状態下で大規模な財政政策を行ったとしても大きな効果は得られない*4。このように考えると不況下で期待の持つ役割の重要性は明らかだろう。
 次にゼロ金利解除に伴って生じた状況を「修正されたIS-LMモデル」に基づいてみてみることにしよう。ゼロ金利が成立している状況とはIS曲線がLM曲線の水平部分と交わったEである。期待変化が生じず、又IS曲線が右方シフトするような状況が十分に観察されない状況下でゼロ金利解除を行うとどうなるだろうか。ゼロ金利解除はマネーサプライの減少と同義だが、それはLS曲線を左方にシフトさせる。結果E’が成立するが、この状況における実質GDPはゼロ金利下の値よりも下落し、名目利子率は上昇するという形になる。2000年8月の金融政策決定会合で日銀はゼロ金利を解除したが、2000年末に景気後退が生じたという事実は、以上のとおりこの単純なモデルの枠組みで説明可能である。

「修正したIS-LMモデル」による2000年時点のゼロ金利解除の解釈

 最後に「修正されたIS-LMモデル」の有効性について確認してみよう。この単純な二本の方程式は失われた十数年におけるデフレ不況の現状を上手く説明することができる。このモデルでの結論はミクロ経済学的な基礎付けを持ったモデルでも同様に導くことができる。さらに期待要素が追加されることでフォワードルッキングな経済主体の行動を記述している。そして現実の政策判断の際に用いられているマクロ経済モデルには「修正されたIS-LMモデル」の発想がモデルの心臓部に埋め込まれている。
 勿論、最前線の研究者にとってはこのような単純なモデルではなく緻密なモデルに基づく議論が必要だろうし、それがマクロ経済学自体の理解を深めることになるのだろう。但し、厳密かつ多数の方程式を備えた理論モデルから導かれる結果と同様の結果を単純なモデルが含んでおり、それがマクロ経済政策の効果や現実経済を把握する上で役に立つのであれば、そのモデルは有効性を有している。以上で示したとおり、「修正されたIS-LMモデル」はこの要件を満たしているのだ。

*1:ちなみに以前田中先生が浅田先生の「マクロ経済学基礎講義」を薦められていましたが、コンパクトに纏まっている良書です。

*2:生産及び雇用は消費及び投資を主な決定要因とする有効需要に基づいて決定される。

*3:仮に名目利子率が一定であるとすれば将来期待される実質利子率が低くなるため

*4:浅田論文では財政政策無効論に対する反論として、a)小野教授の指摘(無駄に遊休している労働力を政府が活用して、社会にとって「有益な」公共事業を行えばよい、b)国家破産の懸念は純債務で見れば大したことは無く、日銀も公的部門と看做せばさらに小さくなる、c)わが国は債権国であり、公債のほとんどは日本国内で保有されており米国のように海外からの借金の比重が高い訳ではない、d)日本政府破綻説を市場が信じれば、民間では誰も国債保有しようとしないため国債価格は下落し利子率は暴騰する筈だが、現実は逆の事態が生じている、e)「非ケインズ効果」は理論的には指摘されるものの、わが国でそのような効果が存在した実証的事実はなく、反対の事実すら存在すること、を挙げている。これらはいずれも重要な点であるが、政策の効果が大であるか否かとは別の論点である。