「現代マクロ経済学における共通理解」とは何か(その2)

※宜しければ(その1)も合わせて御覧頂ければ幸いです。

3.インフレ期待は高めることができる。
 (その1)で取り上げた「修正されたIS-LMモデル」で得られたインプリケーションは、以下の点であった。

「期待要素をおりこんだ修正されたIS-LMモデル」の含意

・期待実質GDP成長率、期待物価上昇率といった「期待」を好転させることができれば、流動性の罠に陥ったとしても金融政策は有効である。
・「期待」を好転させる効果は、経済政策の有効性を高める。

 期待を好転させることができれば経済には良い効果が生まれるのは道理だが、ではどのような仕掛けによって期待を好転させることができるのだろうか。クルーグマンバーナンキ、スヴェンソン、ウッドフォード、岩田規久男浜田宏一伊藤隆敏をはじめとする内外の経済学者が共通して提唱しているのが、中央銀行による「インフレターゲット政策」である。これは以下の二点の要素を含むものである。

インフレターゲット政策に含まれる二つの要素

1.目標の設定及びその明確化
2.目標の達成のためのコミットメント

「目標の設定」とは物価上昇率に対して目標を設定し、それを明確化することである。例えば具体的な数値(2%もしくは1%〜2%といったもの)を伴った目標であることを国民に宣言することである。「目標達成のためのコミットメント」は公衆に目標の信憑性を十分に認識させることである。信憑性を高めるための手段は限定されておらず、財政政策・金融政策を含むありとあらゆる手段が含まれる。

 インフレターゲット政策に対する主要な反論は以下の三点であろう。論文ではそれらの全てが誤りであることが論証されている。以下この点について確認してみることにしよう。

インフレターゲット政策に対する主要な反論

1’.インフレターゲット政策を行ってもインフレにはならない。
2’.インフレターゲット政策を行えば制限がきかないハイパーインフレになる。
3’.インフレターゲット政策は高インフレを抑えるために元々は提示された政策であるため、デフレからの脱却には使えない。


 最初の論点であるインフレターゲット策の無効性についての主張だが、これは有名な「バーナンキ背理法」という形で証明できる。
バーナンキ背理法」はこうである。まず、「日銀は国債をいくら購入してもインフレにならない」と仮定する。これは物価・金利の動向を全く気にすることなく市中の国債や新発国債を全て日銀が買い取り、マネーサプライを増加させたとしてもインフレが生じないことを意味する。この仮定が正しいとすれば政府は物価や金利の上昇を全く気にせずして無限に国債発行を続けることが可能となり、財政支出を全て国債発行で賄うことができるとともに、さらに巨額の財政赤字を解消することも可能になり、無税国家が成立することになる。但し、現実には無税国家は成立しないため「日銀は国債をいくら購入してもインフレにはならない」という命題は誤りである。つまり、「インフレターゲット政策を行えばインフレになる」のである。

バーナンキ背理法」の枠組み

命題:日銀は国債をいくら購入してもインフレにならない
結果:政府は国債発行を続けることが可能である→無税国家の成立(これは成立しない)

よって、命題は真ではない。

 次に三番目の論点について考えると、インフレターゲット政策の無効性が否定されたため、「デフレからの脱却には使えない」という主張は誤りである。さらに変動相場制に従っている多数の中央銀行*1ではインフレターゲット政策を採用しており、高インフレを抑えるために元々は提示された政策である。この点を認めるのならば、「インフレターゲット政策はハイパーインフレをもたらす」という二番目の論点も誤りである。つまり、インフレターゲット政策に関する正論は以下の三点となる。

インフレターゲット政策に関する正論

1.インフレターゲット政策を行えば確実にインフレになる。
2.インフレターゲット政策を行ってもハイパーインフレにはならない。
3.インフレターゲット政策は高インフレを抑え、デフレから脱却することが可能である。


4.インフレは貨幣的現象であり、中央銀行は金融政策によりインフレを制御できる。
 論文では、「インフレーションは貨幣的な現象ではないので、中央銀行は金融政策によってハイパー・インフレーションを制御することはできない」という主張の根拠として、齊藤誠(2002)「先を見よ、今を生きよ−市場と政策の経済学」で記載されている理論モデルの反証が記載されている。3.で見たように、齊藤(2002)の議論は誤りであり、4.の表題に掲げられている記述が正しい。
 齊藤(2002)の特徴は「インフレーションは貨幣的な現象ではないので、中央銀行は金融政策によってハイパー・インフレーションを制御することはできない」という主張を簡単なモデルによって導いている点であるが、本論文では、これを検討することで「齊藤モデル」が提示している命題の矛盾を明らかにし、「齊藤モデル」に即した場合においても齊藤氏の主張とは逆に「インフレーションは貨幣的現象であり、中央銀行は金融政策によりインフレを制御できる」ということを証明している。この部分は個人的には本論文の白眉であると思う。ご興味ある方は是非一読されることをお勧めしたい*2

5.感想
 以上、長々と浅田教授の論文に記載されている「90年代後半以降のデフレと不況の同時進行についての処方箋と対策に関する経済学者の共通理解」をまとめてみた。ここで纏めた論点は至極真っ当なものだと思う。くどいようだがもう一度再掲しつつ関連した論点を含めて纏めると、以下の4点である。

1.物価上昇率と失業率との間の右下がりの関係(フィリップスカーブ)が80年代以降の我が国経済において成立しており、そのことはマネーサプライ等の金融的な側面は消費や投資といった実物的な側面に影響をもたらすことを意味している。デフレは失業率(実態経済)の悪化をもたらすため、「良いデフレ」など存在しない。
2.「流動性の罠」は適切な金融政策により確実に回避できる。「適切な金融政策」とは公衆の「期待」に働きかけることでなされる。
3.「期待」に働きかけること、つまり「インフレ期待」を高めることは可能であり、これはインフレターゲット政策を行えば可能である。
4. インフレは貨幣的現象であり、中央銀行は金融政策によりインフレを制御できる。

 多くの方にとってはここで記載した事実はあまりにも当たり前のことかもしれない*3。もし疑問を持たれる方は是非、この論文や引用されている文献を読んでみることをお勧めしたい*4
 以上で確認したとおり、インフレターゲット政策は「90年代後半以降のデフレと不況の同時進行についての処方箋と対策に関する経済学者の共通理解」に即した有効な政策である。そして、この政策は国民に痛みを要請する構造改革と比較して、経済全体として痛みの少ない政策である。さらにいざなぎ超えを達成し、デフレの最悪期を脱した我が国にとっても必要な政策である。これは日本経済のパフォーマンスの悪化に一因がある政策課題(例えば財政等)の解決にあたっても有効だろう。さらに現時点において「先例がない」ことに伴う心理的制約は大きく緩和しているだろう。
 さて、少し理念としてインフレターゲット策の意味について述べておきたい。経済の秩序が人間一人一人の意識から離れて自律運動した結果として表出するものであるという経済学的発想に従えば、「失われた十数年」における経済停滞は、人間一人一人、つまり国民には非が無く、適切な政策を取れなかった政策当局にこそ責任があったのではと言えないだろうか。まさにインフレターゲット政策の実行は日銀の政策姿勢・考え方を変えることを要請するものである。そして財政政策(為替介入含む)と金融政策が共通した認識の下で各々の目標に即して適切になされることを要請するものである。勿論導入にあたってはコミットメントの具体的な枠組みや見通しの明確な公表、予測モデルの継続的な見直し、市場への信認といった様々な論点があるかもしれない。しかし、他の先進国で導入できた制度なのになぜ我が国ではできないのだろうか。つまり、変わるべきは「国民」ではない。変わるべきは政策決定者の思考や判断、そして政策形成の枠組みなのだ。

*1:日本及び「物価と雇用の安定」が政策目標であるFRBを除く主要先進国中央銀行

*2:要点だけを纏めてみると、a)LSモデル、b)期待実質利子率=名目利子率+期待物価上昇率、c)物価に関する完全予見、d)実質GDP及び期待実質利子率が一定という5本の式を解いて得られた物価上昇率の変動方程式は、一期前の物価上昇率の増加関数、名目貨幣上昇率の減少関数となる。このことは「インフレーションが貨幣的現象であること」を示している。物価上昇率の変動方程式から名目貨幣上昇率が増加すると物価上昇率は減少するという逆説的な結果が得られるが、これは特徴c)〜d)から得られる帰結である。中央銀行が名目貨幣上昇率を一定の値に保つような金融政策を行うと、物価上昇率はハイパー・インフレーションまたはハイパー・デフレーションになる。但し、金融政策ルールを名目貨幣上昇率一定とするのではなく、フィードバックルールを折り込んだ形とすれば、物価上昇率は名目貨幣上昇率に収束し、ハイパー・インフレーションもしくはハイパー・デフレーションの状態は生じない。結局、齋藤氏の主張とは逆に御本人が根拠としているモデルから「インフレは貨幣的現象であり、かつ適切な金融政策によりインフレを制御できる」ことが論証される。

*3:お前ごときが偉そうに書くなという御叱りはご容赦頂きたいし、ここで書いた点を多くの方が極々当たり前だと感じて頂ければとも思う

*4:あと関連してマンキューによる論文(svnseedsさんによる和訳http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20060722)も嫁!そしてbewaadさんの「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」http://bewaad.com/archives/themebased/reflationfaq.htmlも嫁!