城山三郎と「大義」

 今年のNHKの戦争物の企画は、「なぜあんな戦争をおこしたのか」という点に興味を持っている自分にとっては非常に興味深いものだ。特に一兵士として戦争を体験された方々のお話は興味深い。さて、幸運にも週末にNHK ETVの「城山三郎 昭和と格闘した作家」(http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html)が再放送されているのを観たので感想を述べたい。
 ご存知の通り、城山の小説は「組織と人」の関わりが一つのテーマである。軍隊という一つの組織に当時の若者が魅了されたのは「大義」だ。「大義」のために生きることは、美しさと儚さが同居するものである。一青年であった城山はその「大義」に魅了されて海軍訓練所に入るわけだが、そこで見たのは軍の腐敗だった。つまり、「大義」を貫いて生きることなど余人には至難の業であった、というわけだ。同じ思いは同世代の様々な作家に共通したものかもしれない。城山は軍国主義という「大義」の欺瞞と裏切りがなぜ生じたのか、それを考えるにあたって本来は人の役に立つはずの「組織」が人にとって暴力的な役割をもたらすこと、を小説の一つのテーマと定めたのだろう。「組織」を見る目は組織に翻弄される一個人の目線のみならず「落日燃ゆ」の広田広毅、「男子の本懐」の浜口雄幸井上準之助といった当時の為政者にも向けられる。そして戦争という「大義」が失われ、新たな「大義」を眼前に見据えた自分についても向けられていく。
 番組の中では、城山三郎全集に収録されている「旗」という詩が引用されていた。「旗」という詩は「大義」というものが何をもたらしたのかが切々と述べられている。如何に城山にとって「大義」に裏切られたことが大きな出来事であったのか、そして、そのことが膨大な死者という犠牲を伴い、されに生者には「大義」の喪失という形で日本にダメージをもたらしたのかが良く分かる。「戦争中は自分の頭は様々な人々によって押さえつけられていた。貴重な犠牲を持って得たのはこの高い高い青い空だ。」という城山の言葉には重みがある。
 番組中で「国は国民の幸福のみを追求すればよい。「大義」が先ではない。皆が幸福であれば自然と「旗」に人々は集うのだ。「旗」に集うことを強制してはならない。」という趣旨の言葉が紹介された。正に言い得て妙である。我が国の経済政策においても、下らない「大義」、つまりデフレ不況下の構造改革一辺倒という「大義」でどれほど人は迷惑を蒙ったのだろうか。結果の冷静な検証を経ずしない政策が「大義」という思い込みでなぜこうも安易に実行されるのだろうか。なぜ事実を見ずして「大義」という勝手な目的に即した政策を実行するのだろうか。
 この国に生きる人が幸せに暮らせることのみを目指せば良い、そして人は個人個人の幸せを自由に追求すればよい、それだけの事がなぜできないのだろうか。そして「それだけの事」がなぜかくも困難なのだろうか。
 下らない「大義」に己の命を懸ける、という悲しくも壮大なフィクションがなければ死者の名誉を保つことができなかったと私は思う。そしてそのような世代の犠牲の上に立っていることに深く感謝するとともに、その犠牲無ければこの高い高い青い空を得ることができなかったことに涙した。残された世代としてどのように「大義」の魔物と向き合いつつ生きていくのか、愛すべき「大義」があるのだろうか、そんなことを視聴しつつ感じた次第である。