竹森俊平「1997年−世界を変えた金融危機」を読む。

 「世界経済の流れには節目となる年がある。近年でいえば1997年がそれだ。」との一節から始まる竹森教授の新著は、1997年に生じたアジア金融危機及び日本の金融危機の前後における世界経済の動きを分析した好著である。
我が国の金融危機、つまり北海道拓殖銀行山一證券をはじめとする金融機関の倒産は不良債権問題への処置のまずさがもたらしたものだった。そしてマイナス成長といった経済問題は消費税の引き上げをはじめとする増税策がもたらしたものである。つまり、国内経済政策の対応の不味さが我が国の経済危機をもたらしたわけだ。一方でアジア金融危機は、アジア各国の債務が「外国通貨建て(ドル建て)」であったため、中央銀行流動性を供給しようとしてもドル準備の天井にさえぎられて十分な流動性供給をなしえなかったことに背景がある。アジア金融危機は海外問題(ドル建て債務にまつわる問題)、日本の金融危機及び経済停滞は国内問題(円建て債務にまつわる問題)であるという切り口は分かり易い。
1997年を境にして我が国を含む国際金融の情勢は一変した。一つは、アジア経済が通貨危機から立ち直るにあたって、対外準備高(対外貯蓄)、特にドル準備を大きく増やしたことである。これは東アジア通貨危機が「外国通貨建ての債務」に基づく問題であったことからすれば真っ当な対応である。これはバーナンキの言う「世界的な貯蓄過剰」に繋がっていく。つまり、米国の経常収支赤字の拡大の原因は米国の家計及び政府の支出超過に基づくのではなく、発展途上国が国内投資を削り対外的な貯蓄を増やしていることが原因となる。多額の資金が米国に流れ込むことで米国の経常収支赤字をファイナンスしているという見方である。仮にこの見方が正しくないとすれば、長期金利は高騰しているだろう。但し長期金利の水準は低下しており、さらに金利の低下は投資の拡大を基点として世界経済の好況をもたらしている。
 97年を契機にして変化したのは国際金融の流れだけではない。アジア金融危機で対応策を誤ったIMFの影響力は低下した。本書では、IMFの政策の誤りはアジア通貨危機の原因を「流動性不足」ではなく「返済能力の欠如」に基づくものと看做したのではないかと指摘している。「流動性不足」であれば、IMFは最後の貸し手として、迅速かつ大量にドルを東アジア諸国に提供すればよかったのだ。しかし、IMFが行った政策は、高金利政策と緊縮財政策だった。高金利政策には資本逃避の対応策としては有効だが、緊縮財政策、そして構造・制度改革の適用はアジア各国の経済停滞に追い討ちをかけることになる。IMFの政策の失敗やロシア経済危機・日本の長銀日債銀の破綻といった事実は安全資産を求める投資家の「質への逃避」を促し世界的な貸し渋りをもたらした。だが、世界不況は回避されたのだ。それはなぜだろうか。
本書では、「質への逃避」に駆られた資本市場において世界不況を回避するための有効な政策として、三つの政策が議論されている。
 一つは、中央銀行による積極的果敢な金融政策である。現在の世界経済はグローバル化と技術進歩の加速により前例の無い「不確実性」に直面している。この時に「不確実性」は結果についての確率分布が未知である「ナイトの不確実性」と結果についての確率分布が既知である「リスク」に分けることができる。「ナイトの不確実性」とは結果についての確率分布が未知であるということであるから、ある事象が結果として何をもたらすのか全く分からない状態と解することができるだろう。重要な点はこのような「ナイトの不確実性」に陥った場合、人々は「悲観的」に行動するということである。著者は、東アジア通貨危機やロシアの債務不履行といった突発的な危機を「ナイトの不確実性」と準えて、このような突発的な危機において人々は「悲観的」な見通しや行動を行うと論じる。何もしなければ「悲観的」な見通しや行動、つまり投資家の「質への逃避」が蔓延し、資本市場の収縮が実体経済に悪影響をもたらし世界不況に結びついただろう。 では「ナイトの不確実性」の元で中央銀行は何をすべきなのか。それは「悲観的」な見通しや行動を「楽観的」な行動で覆させることである。著者はこの「楽観的」な行動に相当するものがグリーンスパンの元で行われた積極果敢な金融政策であり、アメリカ経済の長期の好況の持続がアジア通貨危機などの世界景気の下降要因を打ち消したと評価している。当然ながら緩和的な金融政策のインパクトが大きくなると資産価格の高騰をもたらし、それがバブルを生み出すことになる。バブルが崩壊した際にどのような影響をもたらすのかは結果についての確率分布が未知であるという意味で「ナイトの不確実性」である。ではこの場合中央銀行は何をすべきなのか。それはバブルが崩壊した時点で蔓延する「悲観的」な見通しや行動を払拭するために中央銀行が積極果敢な行動を行うことである。グリーンスパンはこのような政策を実行したわけだ。但し、グリーンスパンがもたらした金融緩和策は住宅市場の活況をもたらし現代ではサブプライム問題として新たな政策課題として世界経済に立ちふさがっている。さらに米国の経常収支赤字の拡大はそれが縮小する過程で国内経済の軟調化とドルの減価という状況をもたらすかもしれない。いずれにせよグリーンスパンの行った政策は危機を回避したのは事実だろう。但し、それが別の新たな大きな危機をもたらしたのか、そしてそれについての評価には時間がかかるだろう。
 「質への逃避」に駆られた資本市場における有効な政策の二つ目は、民間による解決法を模索するということである。
これは市場経済に内在する「自生的な秩序」(ハイエク)に信頼を寄せるものであり、97年及び98年におけるIMFの政策失敗の後、IMF改革として結実していく。IMF批判論には「分権主義派」(=右)からによるものと、「政府介入重視派」(=左)によるものがあった。「政府介入重視派」による批判は、スティグリッツやサックスによるものである。つまりIMFが東アジア通貨危機のような「流動性の危機」に対して「最後の貸し手」の機能を十分に果たしておらず、不必要な構造改革を押し付けたというものである。勿論、IMFが無制限に「流動性の危機」に対応して通貨を供給することは困難である。よって、「政府介入重視派」による批判は、「国際資本取引の規制」を伴うことになる。
では、「分権主義派」による改革案とは何だろうか。彼らはIMFの存在が国際的な貸借におけるモラルハザードをもたらしていると批判する。つまり、貸し付けた資金が焦げ付いたとしてもIMFが救済に乗り出す(ベイル・アウト)見込みがあるために危険な貸し出しが無節操に行われ、それが問題債務の拡大につながるという見方だ。これはIMF廃止論に繋がる。もう一つの解決策は債権者と債務者との間で解決を図るような仕組みを作るというベイル・インに基づくものだ。IMF改革もしくはIMFに代わる国際金融システムの安全装置として「ベイル・イン」を制度化できればというものである。本書ではこの「ベイル・イン」を具体化した政策が一定の成果を上げていると記載されている。IMFによる国際的な枠組みに期待せず自助努力により危機を防ぐという観点から言えば、アジア通貨危機以降のアジア諸国の対外準備の増加や危険資産への逃避といった現象も市場の適切な判断と看做すことが出来るかもしれない。
 では表裏一体の関係にあるアメリカの対外債務の拡大という事態への懸念が蔓延したらどうすればよいのだろうか。ここで三つ目の解決策として、政府による解決法(悲観主義を吹き飛ばす楽観主義に基づく政策)という視点が議論されている。例示として、03年度に行われた大規模な非不胎化為替政策・量的緩和を基点とした我が国の経済回復策を評価している。
 悲観主義を駆逐し、楽観主義をもたらすという視点は「レジーム転換」をもたらす政策とは何かという視点にも繋がるのではないだろうか。我が国の経済危機及び経済停滞は国内問題であり、そしてそれは人災でもある。著者は「日本の場合、一番恐れるべき「不確実性」は、凶暴な国際資本の力ではなく内なるものである。97年、98年のマイナス成長をもたらした原因も、「失われた10年」をもたらした原因も、さらには国民の年金に対する信頼を地に落とす記録漏れが招かれた原因も、外ではなく内にある。外部からの統制・監督が不十分で、自己の論理だけで生き残る組織の闇を解消することがなくては経済の安定はない」と述べているが、この点は著者の言うとおりだろう。
 本書は、我が国及び世界の国際資本市場の変化及び経済動向の要点を上手く捉えた良書である。IMFの政策に関する「右」の視点と「左」の視点の区分といった点もサブプライム問題に対するG7の対応を考える上で興味深いし、さらにスティグリッツの書籍と対応させてみても面白いだろう。少し気になった点は、不確実性を「ナイトの不確実性」と「リスク」とに分類して議論している点である。勿論、「ナイトの不確実性」=結果について何も分からない事態という意味は分かるが、何も分からない事態に対して対処策があるというのであれば、それは何も分からない事態といえるのだろうか?寧ろ、これはリスクと呼ぶべき事態と看做すべきなのだろうか。「ナイトの不確実性」が結果について何も分からない事態であると字句どおりに解釈した場合、それに対して何か出来る策はあるのだろうか。「ナイトの不確実性」と「リスク」に分けて議論することで97年以降の国際資本市場の動向について見通しが良くなる側面(ナイトの不確実性に支配されると人々は悲観的に行動する)、そもそもナイトの不確実性をどう理解したらよいのかという点について疑問が生じてしまうという点が気になった。自分自身、「ナイトの不確実性」の意味を深く知りたいと思った次第である。