日本の金融政策とマクロ経済に関する歴史的視点から見えるもの(その1)

 岡崎哲二(1999)「日本の金融政策とマクロ経済:歴史的パースペクティブからの再評価」、フィナンシャルレビュー50号*1では、戦後日本の金融政策について歴史的パースペクティブからの再検討が試みられている。そして金融政策の直接的な担当者である日本銀行の経済情勢に関する認知や日銀の認知から最終的な政策決定にいたる政治経済学的過程に焦点をあてている。
 以下では岡崎論文で指摘されている三つのポイントを紹介した上で、90年代前半の日本の金融政策において三つのポイントが成立しているのかどうか、データを用いつつ簡単に議論してみることにしたい。その2では90年代後半の推移をみることにする。

1.岡崎論文の「三つのポイント」
 岡崎論文のポイントは要約部分に簡潔に示されているのでまずはそちらを参照してみることにしよう。戦後日本の金融政策の主要な論点として、以下の三つが挙げられている。
 簡単に纏めれば一つ目のポイントは、金利公定歩合)引き上げの必要性を判断するにあたり、卸売物価を最優先の判断基準としてきたということである。二つ目のポイントは、日銀の現状認識から政策決定への判断のタイムラグは政府方針との齟齬に依存しているということである。そして、三点目のポイントは、金融政策の失敗の理由として卸売物価を最優先の判断基準としたためにマネーサプライの急拡大にも関わらず引き締め政策への判断が遅れたこと、政府の拡張的な政策方針が日銀の政策判断から決定までのタイムラグをさらに引き延ばした、ということである。

1.1950年代後半以降1980年代まで、日銀は公定歩合引き上げの必要性を判断するにあたって、ほぼ一貫して卸売物価を最優先の判断基準としてきた。高度経済成長期に経常収支を基準とした「ストップ・アンド・ゴー」政策が採られた*2という通説的な見方は、日銀の政策判断に関する限りミスリーディングである。1970年代後半以降日銀がマネーサプライを重視するようになったことは事実としても、この時期、日銀が卸売物価の上昇を認知することなく金融引き締めの判断を行ったことはなかった。
2.日銀の判断から最終的な政策決定に至る過程にしばしば政府の方針が介在した。政府が拡張的な経済政策を志向している状況下では、日銀の金融引き締めに関する判断から政策決定までのラグは長くなり、逆に政府が緊縮政策を志向している状況下ではラグは短くなる傾向があった。
3.戦後における金融政策の2回の大きな失敗は、いずれも金融政策の決定に関する上記の二つの特徴の帰結と見ることができる。70年代前半のインフレ、80年代末の資産価格インフレに共通するのは、?マネーサプライの大幅な増加が長期に渡って続いたにも関わらず卸売物価が安定していたために日銀の引き締め政策への転換判断が遅れた、?拡張的な経済政策を志向した政府の介入がその遅れを増幅したという二つの事情だった。


2.「三つのポイント」からみた90年代前半の日本の金融政策
 このような日本の金融政策に関する「三つのポイント」に即して90年代前半の日本の金融政策を見た場合、どのような評価を行うことが可能だろうか。
 以下の図表は、90年1月から公定歩合政策金利として機能した94年9月(金融自由化完了前)までの公定歩合(月末値)、消費者物価指数(コア、対前年同月比)、国内企業物価指数(総合、対前年同月比)、M2+CD月次平均残高(対前年同月比)の推移をプロットしたものである。政策金利が継続して上昇もしくは横ばいであった時点という意味では、91年6月までが金融引き締め期と捉えることが出来るだろう。90年1月から91年6月までの期間の公定歩合と国内企業物価指数の伸びの関係をみると、90年3月から4月にかけて国内企業物価指数の伸びは3%程度から1%程度に下落した後、5月以降緩やかに2%の伸びに近づく動きをみせている。この間公定歩合は90年3月、8月と増加し、6%まで引き締められた。この動きは岡崎論文で指摘されている「日銀は卸売物価指数の動きをみて政策金利を動かす」というポイントは当てはまっていないようにもとれる。


出所:国内企業物価指数、マネーサプライ統計、公定歩合は日銀HP、消費者物価指数総務省統計を参照。

 
 特徴的な動きとして、90年5月から10月までM2+CDの伸びは11%台から13%未満だったが、11月以降M2+CDの伸びは大きく低下し続け、91年6月には2%半ばまで落ち込んだ。この期間における国内企業物価指数及び消費者物価指数の伸びは共に安定していることから、「日銀は卸売物価指数の伸びを見て政策金利を決めていた」という岡崎論文の指摘は当てはまっている。さらに、金融政策の失敗についての指摘である「マネーサプライの大幅な変化にも関わらず卸売物価指数の伸びが安定的であったことから政策判断の転換が遅れた」という指摘も当てはまるだろう。
 91年7月以降、日銀は国内企業物価指数の伸びの減少と呼応するように公定歩合を下げていく。この時点で着目すべきは国内企業物価指数の伸びがマイナスに落ち込んだ91年11月の時点での公定歩合が5%(引下げ幅1%)であり、しばしば指摘される点だが金融緩和の対応策としては不十分だったのではないかということだ。この時期にM2+CDの伸びも2%と大きく下落したが、国内企業物価指数及びM2+CDの伸びの急減に対して大規模な公定歩合の引下げを行っていればその後の長期停滞は軽減された可能性が高い。
 尚、93年9月には公定歩合は1.75%まで引き下げられ、91年6月の6%から4.25%引き下げたことになる。日銀が87年2月から91年6月までに行った公定歩合の上げ幅が3.5%であることから引下げ幅としては大規模だが、M2+CDの伸びも大きく下落したことも重視すべきだっただろう。91年7月以降、国内企業物価指数の伸びは低迷した。安定的なプラスの伸びへと転換したのは04年以降のことである。M2+CDの伸びについては98年に4%台後半となったが、07年以降においても2%未満の水準に留まっている。

3.まとめ
 本エントリでは岡崎論文で示唆されている日本の金融政策の「三つのポイント」を紹介しつつ、90年代前半の時期における各種データを比較しながら「三つのポイント」が当てはまるのかどうかを整理してみた。90年代前半期においても国内企業物価指数(卸売物価指数)の推移を政策判断の最優先とし、マネーサプライの伸びを重視しなかったことが必要以上の金融引き締めを生み出したという結論は成立すると考えられる。又、国内企業物価指数の伸びを最優先の指標としていた場合においても、物価指数の伸びがマイナスになった際の政策金利の操作は不十分だったことがわかる。「バブルが崩壊し・長期低迷が生じる兆候があるのならば金融緩和をためらわず即座に思い切り実行すべき」というおなじみの教訓がいみじくもこの図表からはうかがえるのではないだろうか*3

*1:http://www.mof.go.jp/f-review/r50/r_50_125_144.pdf

*2:景気の過熱から経常収支が赤字基調になると金利を引き上げ、黒字基調に転換したのをみて金利引き上げを解除するという一連の流れ

*3:ネタとして某所で話題になった日本地図とフィリップスカーブの話に関連付けていうと、公定歩合の動きと国内企業物価指数の対前年同月比の変化が重なるように見えるのは私だけでしょうかw