世界的な対外不均衡の拡大、資源価格高騰と我が国のデフレ(その4)
5.なぜマネーサプライは増えなかったのか
(1)再び、デフレはなぜ生じたのだろうか
(その2)及び(その3)では、マーシャルのケンブリッジ方程式から物価変化の要因分解を行い、さらに90年代のデータを用いた物価変化に関する実証分析を紹介した。これらから分かった点は以下のとおりである。
・物価変化はマネーサプライ伸び率が増加すると上昇し、実質GDP成長率が増加すると下落し、マネーに対する需要(マーシャルのk)が増加すると下落する。
・90年代後半以降の物価変化を見ると、実質GDP成長率ほどマネーサプライが伸びていないことがデフレをもたらした大きな要因である。
・GDPデフレータに影響をもたらすのはコールレート、マネーサプライ、GDPギャップの三つの要因である。又、消費者物価指数に影響をもたらすのはコールレート、マネーサプライである。以上から、金融政策が物価変化に有意な影響を与える。
このように纏めてみると、90年代後半以降、実態経済の悪化とデフレが共存し、さらに02年以降の景気回復局面においてもなぜ物価が上昇しなかったのかは自明だろう。景気回復局面において実質GDP成長率は2%台まで回復したが、それはマネーサプライの増加を伴ったものではなかったため、これである。周知の通り我が国ではゼロ金利政策から量的緩和政策へ移行し、現在でも0.5%といった形でコールレートは低位に据え置かれている。この事実を考慮すると、金融政策に対して二つの可能性があるだろう。一つは「金融政策は物価に対して影響を及ぼさなくなった」という可能性であるが、これは(その3)における実証分析の結果とは矛盾するだろう。もう一つのあり得べき可能性は、「何らかの理由により金融政策は物価に対して十分な影響を及ぼせなかった」というものである。
以下、累次の金融政策の発動においてなぜ十分なマネーサプライの増加が生じなかったのかを検討しつつ、この点について考えてみることにしたい。
(2)なぜマネーサプライは増えなかったのか?
なぜ90年代以降においてマネーサプライは増えなかったのだろうか。マネーサプライは、中央銀行が供給するマネタリーベースが金融機関の信用創造機能を経由して提供されるものである。そのため、なぜマネーサプライが増えなかったのかを見るには、マネタリーベースの変化と信用創造機能(信用乗数:マネーサプライ/マネタリーベース)の変化を押さえておくことが必要である。
a)マネタリーベース・信用乗数・マネーサプライの推移
以下の図表は80年から直近年までの信用乗数の推移を見ている。これが高ければ高いほど、同額のマネタリーベースで多くのマネーサプライが生み出されることを意味している。図表中に引かれているオレンジ色の横線は80年代〜90年代の信用乗数の平均値を示しており、信用乗数は12倍程度だったことがわかる。信用乗数は91年の12.7倍を頂点として一貫して低下しており、80年代〜90年代の平均ライン12倍を割り込むのは96年である。そして05年に6.4倍と91年の半分程度の水準まで下落した後、07年には8.2倍まで回復している。尚、近年の信用乗数の増加は、出口政策の過程でマネタリーベースの伸びがマイナスになっている一方でマネーサプライが増加していることが理由である。
信用乗数の推移
出所:日銀統計、信用乗数=M2+CD/マネタリーベース:月次平残値の単純平均値より計算。
では信用乗数の低下の中でマネタリーベースとマネーサプライはどのような関係にあったのだろうか。信用乗数の変化率をマネタリーベース変化率、マネーサプライ変化率に分けてみると、マネタリーベースの伸びに対してマネーサプライの伸びが小さいことが信用乗数を低下させたということがまず指摘できるだろう。さらに、金融政策との関係で言えば、マネタリーベースの伸びが十分でなかったとも言えるだろう。つまり、バブル崩壊から実態経済の悪化が鮮明となった90年代前半の伸びは4.3%、金融危機が深刻化しデフレに陥った90年代後半の伸びは7.3%、00年代のゼロ金利突入から量的緩和・そして現在に至る局面での伸びは5.9%であり、いずれも80年代後半のマネタリーベースの伸びを下回っている。そして90年代後半以外の局面のマネタリーベースの伸びは80年代前半の水準をも下回っていることもわかる。
以上から、マネーサプライが増えなかった理由として、次の二点を指摘できるだろう。一つは信用乗数の低下である。これは、マネタリーベースを供給しても信用創造機能が十分に働かなかったためにマネーサプライが十分に増加せず結果としてデフレから脱却できなかったということを意味している。そしてもう一つは十分なマネタリーベースを供給していなかったのではという点である。バブル崩壊から実態経済の悪化が生じた早期の段階で思い切った金融緩和を行えば、マネーサプライは増加し、デフレから脱却できたのではないかということである。
信用乗数の変化率の推移
注:信用乗数変化率=マネーサプライ変化率−マネタリーベース変化率。マネタリーベース変化率がプラスの場合はマイナスの伸びになるように作図している。
出所:日銀統計
信用乗数変化率(年代平均)
信用乗数変化率=M2+CD変化率−マネタリーベース変化率
出所:日銀統計
b)なぜ信用乗数は低下したのか?
では、なぜ信用乗数が90年代に低下したのだろうか。この点に関しての代表的な実証研究としては、内閣府経済社会総合研究所「経済分析」第177号中の小林慶一郎・飯田泰之両氏による異なる二つの仮説に基づく研究を挙げることができる。両氏は信用乗数の低下が生じた原因を、ア)銀行機能の低下(小林氏)、イ)デフレ期待を生み出した金融政策(飯田氏)という二つの相対立する仮説に基づきつつ、実証研究・論争を行っている。
本題に入る前に、信用乗数の低下がなぜ生じたのかについて、信用創造の側面から確認してみよう。以下の図表は信用乗数の変化を非金融部門現金預金比率、金融部門現金預金比率、準備率変動の三つに分けてみたものである。これを見ると、信用乗数の低下は非金融部門の現金預金比率(預金に占める現金の割合)が高まったことに加えて、02年以降は準備率(預金に占める準備金の割合)が増加していることが影響していることがわかる。
信用乗数の変動要因分解
出所:飯田(2005)、「デフレ期待・銀行機能問題と信用乗数の低下」、ESRI Discussion Paper Series No.143.
では、信用乗数の低下の背後にある非金融部門現金預金比率の増加はなぜ生じたのだろうか。
小林論文はその主要因として、銀行破綻懸念が増大し、預金者の主観的リスクが高まったことを挙げている。これは90年台後半に不良債権の増大・もしくは顕在化が明らかになったことが、銀行預金の名目期待利子率を破綻リスク分だけ低下させることで現金保有に進ませたということを意味している。一方で小林氏はデフレ期待による実質利子率の上昇も、貸出需要を低下させることで非金融部門現金預金比率を増加させた可能性はあるものの、90年代の半分以上の期間で実質利子率は均衡利子率を下回っており(Iwamura,Kudo,and Watanabe(2004))、デフレ期待が設備投資を低下させたとは言えないことや90年代の実物経済の動きは、TFPの変動でほとんど説明でき(Hayashi and Prescott(2002))、デフレという貨幣的な歪みが実物経済に影響を与えていた証拠は得られていない、という二点の理由から、デフレ期待による非金融部門現金預金比率の増加という経路に対して疑問を呈している。
但し、デフレ期待仮説に対して小林氏が指摘した二つの論拠は十分なものではない。小林論文に対する飯田氏のコメントにも挙げられているとおり、デフレ期待が実質金利を押し上げることで設備投資にマイナスの影響をもたらしたとの推計結果や(清水谷・寺井(2003))、Hayashi and Prescott(2002)におけるTFP推計が労働や資本の質変化を考慮していないため90年代のTFP成長率の低下幅を過大推計しているという指摘が大勢であることがその理由である。
TFP成長率に関する既存研究
注:Hayashi and Prescott,吉川・松本、内閣府の3つの推計では労働と資本の質変化を考慮していないが、これらの推計では90年代のTFP成長率が−1.4%ポイント〜−2.17%ポイント低下したとの結果が得られている。
出所:宮川(2006)
飯田論文ではどのような論考が展開されているのだろうか。氏は信用乗数の変動要因分解の結果から、91年から2000年前後にかけて中心的な要因であった非金融部門の現金預金比率の上昇を説明する仮説、2002年以降の超過準備を説明する仮説をそれぞれ設定の上で分析を進めている。
対応する仮説は以下のようなものである。まず、91年から2000年前後の非金融部門の現金預金比率の上昇については、デフレ期待による実質金利の高止まりが資金需要を停滞させ、それが貸出の減少を通じて現金・預金比率を上昇させたというもの、さらにデフレ期待と名目利子率のゼロ制約が銀行預金に対する「靴底費用」(最低限のコスト)以上の収益差を設定することを困難にさせた結果、現金・預金比率が上昇したというものである。そして2002年以降の超過準備を説明する仮説として、デフレ期待仮説、小林氏の不良債権仮説、期待を伴わない量的緩和策が超過準備を高めたという三つを検討している。
これらの仮説の検討結果はどのようになるのだろうか。飯田論文におけるVARモデルの実証結果は、90年から2000年前後の期間において、期待インフレ率の上昇が信用乗数を有意に増加させるとの結果を得ている。この結果は当該期間の信用乗数低下の主犯がデフレ期待であることを主張するものだろう。小林氏からのコメントに応える形で、小林氏が考慮した不良債権要因(銀行株価)を含めたVARモデルの分析も行われているが、期待インフレ率が信用乗数に与える影響は有意である。一方で不良債権要因(銀行株価)が信用乗数に与える影響は構造型の違いにより異なるためロバストではないとの結果が得られている。勿論、不良債権要因の代理変数を銀行株価とするのが好ましいかは留保すべき点であるが、それでも期待インフレ率が信用乗数に対して有意に影響しているとの結果は覆されないだろう。
2002年以降の動向はどうだろうか。2002年以降においては、非金融部門の現金・預金比率の寄与よりも準備率変動の寄与が大きいため、期待インフレ率の影響力は低下する。飯田論文では、期待への十分なコミットメントを伴わない量的緩和策が信用乗数を低下させていたのではないかとの指摘があるが、まず上で示した信用乗数の変化率の推移を見る限りでは量的緩和策が本格的になされた02年の信用乗数は大きく低下し、06年以降の出口戦略からゼロ金利政策への移行、そして利上げの局面においてマネタリーベースが低下することで信用乗数は上昇局面に入っているとも読める。
量的緩和政策の効果に関する実証研究のサーベイを行った鵜飼(2006)では、ゼロ金利が継続されるとの時間軸効果がイールドカーブを押し下げる効果が明確に確認され、企業金融面で緩和的な環境を作り出したこと、金融機関について資金繰り不安を払拭したこと、等が指摘されている。上で示した信用乗数の伸びの回復過程においてマネーサプライはわずかながら増加を続けているが、量的緩和のタイミングにおいてマネーサプライの増加率に大差がないという事実や、企業部門の資金調達動向からは06年度に借入がわずかながらプラスに転じたといった事実を勘案すると、鵜飼(2006)で指摘されている効果は限定的であり、信用乗数の増加に直接寄与するほどではなかったともいえるのではないだろうか。
企業の資金調達(フロー)の動向
出所:日本銀行「資金循環統計」
c)マネタリーベースを増やせば信用乗数は増加するのだるうか?
b)で紹介した小林論文・飯田論文は信用乗数の低下に関して異なる仮説を提示しつつその論証を試みているが、一つだけ共通した見解がある。それはマネタリーベースを十分に増加させることで信用乗数が増加するという指摘である。
小林論文では、銀行破綻懸念が増大し、預金者の主観的リスクが高まったことが信用乗数低下の理由と指摘している点は先にみたとおりだが、銀行破綻懸念の増大は十分な流動性が供給されることによって低下すると考えられる。すると、預金者の主観的リスクは緩和され、信用乗数の低下は抑えられるだろう。飯田論文では、デフレ期待が貸出需要を低下させるという経路の存在や、期待の変化を伴わない金融緩和が信用乗数の低下をもたらしたと論じている。十分なマネタリーベースの供給を行うことは期待の変化に働きかけるための一つの手段とも言えるだろう。
上で紹介した信用乗数の変化率を分解した表を見ても、90年代以降のマネタリーベースの供給量が80年代後半の金融緩和局面に及ばないという事実は金融緩和が小出しに為されたという議論を補完するものである。個人的な感想を述べれば、日銀はマネタリーベースを外部が認識する程自由に操作することが出来ず、寧ろ受動的にしか調節できないという「日銀理論」の当否や、実際に90年代にどのような手段でマネタリーベースを調整していたのかという検討は必要であるものの、80年代後半には達成できた緩和ペースが不況の深刻化のさなかでなぜ90年代には達成できなかったのかという疑問は拭えない。
(3)まとめ
以上の帰結からなぜマネーサプライが増えなかったのか、その理由を整理してみると以下のように纏めることができるだろう。
・マネーサプライが十分に増えなかったのは、信用乗数の低下、中央銀行が供給するマネタリーベースの増加が十分でなかったこと、が理由である。
・信用乗数の低下は90年代から00年前後までは家計・企業の現金・預金比率の上昇が影響し、02年以降は超過準備が影響している。
・90年代から00前後までの信用乗数の低下は、デフレ期待が高まったことで、貸出需要を低下させたことが主要因である。
・銀行破綻懸念の高まりは90年代から00前後までの信用乗数の低下の理由として考えられるものの、代理変数として銀行株価を用いる事の是非や、銀行破綻懸念・インフレ期待を考慮した実証研究の結果を考慮すると有意な要因とは言えない。
・02年以降の超過準備は量的緩和によるマネタリーベースの増加が影響していると考えられる。しかし量的緩和前後でマネーサプライの変化率は大きく変化しておらず、この意味で量的緩和策の効果は限定的であったといえる。
・年代別にマネタリーベースの変化率を見ると、90年代以降のマネタリーベースの変化率は80年代後半の変化率を下回っており、不十分なマネタリーベースの増加が継続的に為されたことがデフレ期待を定着させ、信用乗数を低下させた。