「彼」について
この所の世相の中で私が気になるのはもうかれこれ20年程何らかの形で陰に陽に影響を受けてきた「彼」の視点・思想である。そう、「彼」は私のようなちっぽけな人間ではなくれっきとした当代一流の人々からこんな評価を受けていた。
『彼が失業を憎んだのは、それが馬鹿げているからであり、貧困を憎んだのは、それが醜いからであった。彼は現代の生活の商業主義に嫌気がさしていた。彼は、経済学が重要でなくなり、われわれの孫たちが文化的な生活を営みはじめることが可能となるような世界についての快いビジョンに耽っていた。』(ジョーン・ロビンソン)
『彼の知性は、私の知るかぎりで最も鋭く、また明晰なものであった。彼と議論したとき、私は寿命の縮まる思いをしたし、何かしら自分が愚か者に見えてこないことは稀であった。私は時折は、あまりにも賢すぎるということは、深さとは両立しないに違いないと感じがちであったが、しかしこう感じるのは正しくなかったように思う。』(バートランド・ラッセル)
『彼の知的能力は、専門的な経済学者に通常見出されるよりもはるかに幅広い範囲をもっていた。彼は論理学者、偉大な散文作家、深遠や心理学者、書籍収集家、高名な絵画鑑定家であった。彼は、説得の実務的才能、政治的手腕、実務上の効率性を備えていた。彼は、彼と直接に会った人々に強い影響をあたえるという個人的な才能をもっていた。経済学はまだ若く、今のところ、一部分だけが高度に専門家されている学問であるので、このような該博な知識の持ち主と接触することによって多くを得るのである。私は、かつて彼がリカードを「経済学をその名にふさわしいものとして建設した最も卓越した知性」であると述べたことを覚えている。われわれは、彼の知性をリカードのそれよりも優るものと確信をもって判断してもよいであろう。』(ロイ・F・ハロッド)
『どのようにすればこの驚嘆すべき卓越性の諸源泉を将来の世代のために記述することができるだろうか。彼が当代一流の経済学者の一人であったことは言うに及ばない。あなた方が彼に賛成しようがしまいが、彼の分析の力量と鮮やかさ、あるいは量的な釣合いについての彼の強い感覚を否定することはできないだろう。しかし、同じくらい多くの業績を持つ他の経済学者は、多くはないが確かに存在した。しかしながら、彼はただ一人であった。むしろ彼を際出させて、彼の世代のすべてのなかで彼を傑出させているのは、より一般的な精神と人格の性質であった。すなわち、思考と知覚のすばやさ、彼の声の調子と彼の散文の文体、彼の理想主義と道徳的熱情、そして何にもまして、人に活力をあたえるような彼の存在の性質だった。』(ライオネル・ロビンズ)
「彼」は時代と格闘し、時の相の下で堪えず何かを書き続けた。そして「彼」が示唆した政策は世界中を駆け巡り、当時の世界の経済政策の主柱となった。しかしながら現代の我が国においては彼の政策・ビジョンは無残にも放逐され、代わりに80年程前に既に過ちが明らかとなった思想−「構造改革主義というドグマ」が幅を利かせるという始末である。その結果が失われた十数年である。尤も、構造改革主義の頼みの綱である市場もマモン(Mammon)の巣窟と看做される状況では、いくら自由、規制緩和と叫んだところで市場がその効率性を確保することなど難しいのである。
さて、こんな風に揶揄した状況は幸運なことに変わってきている。しかし一般に「経済対策」といわれている代物には実は「経済」の二文字が含まれてはいないことをご存知だろうか。そして某閣下は補正予算の執行に拘られているようだが、実際に対策が為される頃にはもはやその対策は意味が無いという悲しい事態が待ち受けているであろうことはご存知だろうか。
『しかし、すべての人がより多くの財を望むにもかかわらず、労働者がときとして完全に失業するという馬鹿げたことは、一つの混迷に由来しているにすぎず、それはわれわれが明快に考え、行動するならばなくすることができるはずのものである。』(「通貨政策と失業」)と彼がいう「馬鹿げたこと」はいつになったらなくすことができるのだろうか。人口減少が現実的なものとなっている我が国においてすら馬鹿げたことはほぼ日常茶飯事のものとして、そしてこの程度の馬鹿げたことは仕方がないものとしてシニカルに捉えることが流行りなのではないかと勘ぐりたくなるのが昨今の状況である。若しくは、ミイラ取りがミイラになるが如く馬鹿げたことをしていたつもりが本当に馬鹿になってしまったのだろうか。
『人生の享受と現実のための手段としての貨幣愛と区別された−財産としての貨幣愛は、ありのままの存在として、多少いまいましい病的なものとして、また、震えおののきながら精神病の専門家に委ねられるような半ば犯罪的で半ば病理的な性癖の一つとして見られるようになるだろう』(「わが孫たちの経済的可能性」)という彼の文言を読むとき私は微苦笑を禁じえない。それは、財産としての貨幣愛が未だに「彼」の言う半ば犯罪的で半ば病理的な性癖の一つとしては看做されることはなく、皮肉めいたことを言えば寧ろ尊敬を受けるものとして受け取られているためである。そしてずうずうしくも世間の意思を受けてなのかわずかな影響しか及ぼさない金利を上げよとまでのたまう政治家も出てくる始末である。更に言えば、そんな貨幣愛に縛られた狂人とも言える人々が構造改革主義というドグマを唱え、未来ある人間を絶望の淵に陥らせ、馬鹿げたことを馬鹿げたことと看做せない狂人を再生産しているのだ。