司馬遼太郎『功名が辻』を読む。

 今年から始まったNHK大河ドラマは「功名が辻」。仲間由紀恵が良いとかそういうことは置いておいて、NHK大河ドラマは毎年現代に即した一つのテーマを視聴者に感じさせるものではないかと思う。つまり、「義経」であれば源義経の姿から現代ヒーローをどう考えるのか、「新撰組」であれば近藤勇の姿から新しい時代にあくまで旧体制側として立ち向かった姿の清々しさ、を感じさせてくれたという具合だ。今回の「功名が辻」は現代という時代の中で何を訴えかけてくれるのか興味あるところである。
 そんな気持ちで司馬遼太郎の原作本を読んでみた。「功名が辻」は言うまでもなく、山内伊右衛門一豊とその妻千代の一代記であり、戦国の世にあって一国一城の主を目指し「功名」を求め、その思いを達成した二人の生涯を描いた作品である。司馬遼太郎の作品は多数読んでいるが、本作は「義経」のように本人の実像に迫りすぎて物語の興を失うといった形ではなく、程よい時代考証、臨場感、現実味の中で二人の姿を描いた好著だと思う。
 一豊の生涯はまさに「運が良かった」ということに尽きる。信長、秀吉、家康といった天下人になった人物に仕えつづけ、戦ではほぼ負けというものを経験したことがない。安定した「功名」をなしていくにはまず負けない戦いに参加する事が必定であり、その意味で大した戦功をたてなくても秀吉の時代の下で掛川5万石の城持ち大名まで出世したのだろう。現代においてもいくら能力が素晴らしくても「運」がなくては出世することはおぼつかない。「運も実力のうち」とは良く言ったものだが、まさに一豊の人生はそうなのかもしれない。
 ただ「運」が良くてもそれだけでは人はその人生において目標を達することが出来ない事を教えてくれるのも本書である。物語中のクライマックス、関ヶ原の合戦前に上杉軍を討つために参集した諸侯の中で最高齢であった一豊は、軍議に参集する際、知略で名高い堀尾忠氏と共に向かうことになる。それは知略に劣る一豊が妙案を得るためにしたことであった。若い忠氏は徳川に味方するのであれば自分の持つ城・城下町・禄高を全てあけわたすといった具体的な事を言わねば意味がないと腰の低く律儀な一豊にふと漏らしてしまう。軍議において、一豊は「抜け駆け」の形で忠氏の意見を家康に具申し、それをもって東征軍は一つに纏まり、結果、関ヶ原の戦いで家康は勝利を収めることになる。このときの一豊は既に老齢にさしかかっており、運の良さでそこそこの成功は収めたものの、「一国一城の主」にはほど遠い存在であった。何とか自分の一生の目標を成し遂げるという必死の思いが一豊をして「抜け駆け」の行為に走らせたのだろう。史実と異なるかもしれないが、「功名」を得る為に必死の思いで行動する一豊、そして「抜け駆け」されたにも関わらずそれを認める忠氏、が描かれる様はすがすがしい気分にさせてくれる。
 この必死の努力には千代の助けがあった事は事実である。千代は大阪方から送られた(大阪方に味方せよとの)回状を封を切らないまま、千代の所感とともに一豊に家康に渡すよう使いのものに持たせる。回状を封を切らずに家康に渡すということは、「迷う事なく家康に味方する」との意思表示であり、千代の書状にあった「兼ねてよりのお話通り家康に味方する」という言葉は家康に一豊が日和見ではなく命をかけて家康に付き従う事を納得させるのに十分であった。人の心の機微を忘れない千代、そしてその思いに答えようと必死の努力をする一豊の行動が「功名」をつかむことになった。
 関ヶ原合戦では満足な働きが出来なかった一豊であったが、家康は彼に土佐二十四万石を与える。家臣が訝った処遇であったが、家康は「槍働きならやろうと思えば誰でも出来る。諸侯の纏まりは一豊の一言に寄るところが大きく、(一豊は)功名をなしたものよ」と語った。体を張って一豊が家康に与力すると居並ぶ諸侯の前で宣言したという政治的な意味を家康は評価した訳である。その意味で、いくら必死の努力をしたとてもそれが認められなくては意味がないこと、理解する人が居て初めて必死の努力が実るのだという事を思い当たらせてくれる。
 現代はある一定の尺度で人の将来・行く末を語ることが出来ない世の中である。人の価値観が移ろい、学歴が良いとしても安定した出世の道は必ずしも約束されておらず、逆に個人の才覚で世の中を渡っていくことも可能である。また一時の栄華を極めたとしてもそれが永遠に約束されるということも覚束なく、安定さにはかけるものの面白い世の中だと思う。
 その意味で本書は、普通の人であった(と思われる)一豊の生き様を通じて、安定さに欠ける社会において人生の目標を達成し得るには何が必要なのかを我々に教えてくれるのではないかと感じる。本書からはその秘密は、?運の良さ、?必死の行動とそれを認める理解者の存在、?人の心を推し量る想像力、そして?己の限界を知りそれを他で補おうとする一豊の謙虚さ、ではないかと思う。
 さて、本書の題名である「功名が辻」について考えてみたい。人生にはその人の行く末を決定づけるターニングポイント・チャンスが必ずある。武将にとってはそれが「功名が辻」であり、具体的には合戦であった訳だ。当時の常識では「功名」をなすには武芸に秀でていることが肝要であり、その意味で槍働きでの軍功を得るというのが真っ当なやり方であったのだろう。加藤清正福島正則といった武将は槍働きでのし上がった大名である。但し、全ての人が槍働きで「功名」が得られる訳では無論ない。現代において「功名」をなすには何をすべきなのか、凡人の私に分かり得る所ではないが、本書からは自分の力を認識した上で持ち味を生かす努力を重ねていくことが「功名」への道に繋がるのではないかと感じられた。また人が相手であるということから人の心を読み取る機微がなくては駄目ということなのだろう。今年の年末、大河ドラマの終わりに私は何を思うのだろうか、楽しみである。