「経済政策形成の研究」第6章〜第8章に関する暫定的感想

※書籍全体についての感想は全ての論説について取り上げてから纏めたいと思いますが、既エントリの部分に関連しての暫定的な感想です。いくつか言い足りない点はありますが、それは追々考えつつ機会を見つけて記載していきたいと存じます。当ブログのポリシーに則り「経済政策形成の研究」という書籍自体の感想ではないことにご注意下さい。諸事情によりタイトル・内容ともに大幅に変更いたしました。この点は恐縮ですがご容赦・ご寛容頂ければ幸いです。

当該記事に関する私の感想について
・浅田論文(第七章)では批判対象の個人名を挙げていますが、それはそれらの方々が書かれた書籍についてのものです。そしてその書籍に書かれている内容が誤りであることを比較可能な手がかりを論拠にして証明しています。さらに幾多の文献での内容を元に分析されてもいます。ここでの帰結から「なぜ異論のある経済学者が認知されているのか」という議論に結びつけるのは早計ではないか、というのが感想です*1。一つの理由として、なぜならそのようなニュアンスの話は第七章中には何も記載がないからです。経済学は社会科学であるとともにマクロ経済学は実証に基づく経験科学だと私は思います。私の浅田論文に関するエントリではマクロ経済学の共通理解に関して括弧書きで括った上で、尚且つ「その中においても経済学者の間で完全に理解が一致しているもの、そうでないものが混在しているというのが現状だろうし、それは耐えざる新たなデータの洪水や経済学者のあくなき探求によって磨かれていくものだ。マクロ経済学の最前線に立つ研究者でもない自分が「現代マクロ経済学における共通理解」とは何かを判断しようなどと言うつもりは毛頭ない。ただ一方で、論文中で与えられたモデルについての議論が理屈に照らして正当か否かを判断することは可能かもしれない。」と言及しています。私個人は学界に属する人間ではありませんが、学界自体の動向を幾つかの文献(及び海外経済学者の論文等々)から認識する限りにおいて、浅田論文で記載されている内容は正しいと認識しています。元々、経済学にはマルクス経済学や新古典派ケインジアン、といった形で多数の考え方が並存しています。勿論その中にも多数の考え方が並存しています。それこそが経済学の魅力でもあると私は認識しています。

・浜田論文に関する私の認識ですが、これは政策の中枢に関わった研究者が感じた認識を伝えるものとして貴重なものだと思います。そしてこの論文は第三部の「経済学における「共通の知見」をめぐって」には所収されていません。第二部の「歴史からの照射」に所収されているものです。例えばオーラルヒストリーの分野では当時の政策担当者が何を考え、どのような行動を行ったという生の記録自体が後世において政策判断や政策形成を考えるにあたって重要になるとの指摘もあります。浜田先生のこの論考はその意味で重要かつ貴重なものだと私は認識します。

・松尾論文については「経済学的思考」・「反経済学的思考」という二つの次元に様々な言説を上手く切り分けることができるのかという側面もあると思います。ただ私が興味深いと思うのは、「経済学的思考」・「反経済学的思考」と「市場主義」・「反市場主義」の枠組みが失われた十数年の言説の解釈において新たな枠組みの一つの提示になりえるかもしれないと思ったためです。勿論、その根拠が弱いということもあるのかもしれませんが、それはこの方向性に基づく研究の進展に期待したいと思います。

*1:書籍を全て通した上での感想としてはあり得ると思いますが、来月に公表される予定の私の小論でも少しだけふれています。私個人の現時点での認識は政策決定者及びその周縁に存在する人々の認知の問題、さらにそれらの人々を取り巻く政策決定システムに起因する問題なのでは考えています。これらの点についての私の感想は全ての論考について紹介した上で、記載したいと思います。