経済政策において既得権益と既得概念はどのように作用するのか(その1)
「経済政策形成の研究」第一章では野口旭教授と浜田宏一教授が「経済政策における既得権益と既得概念」と題して論文を書かれている。本論文のポイントは題名にもあるとおり、経済政策において既得権益と既得概念がどのように作用しているのか、という点だろう。
以下、(その1)では、経済政策における既得権益と既得概念の関係について野口・浜田論文の印象的な点について纏めてみることにしたい。(その2)では(その1)の議論を前提として、経済政策における「対立」の意味、認識モデルのダイナミクスを紹介し、感想を書くことにしたい。
1.経済政策の決定と既得権益、既得概念
ある経済政策の決定に際しては、既得権益、既得概念の二つが影響する。
経済政策 ←既得権益(経済主体の利害関係)
←既得概念(政策にかかわる利害や効果についての「観念」)
経済政策は、様々な経済的集団の利害を反映して決定される。経済政策が社会の各階層に与える影響は必ずしも一様ではない。例えば、ある国との自由貿易協定(FTA/EPA)の締結の効果を考えると、社会全体にとっての経済厚生が増加することが自明であったとしても、我が国の場合には関税・非関税障壁により保護を受けている部門に属する人々・又関連する利益団体、さらに族議員といった人々は簡単に首是しないだろう。これらの人々がある程度の政治的影響力を持ちえる場合、たとえ自由貿易協定が我が国全体にとって望ましい政策であっても実行に移されないことになる。
他方で、経済政策に大きな影響を与える要素として、人々の既得概念が挙げられる。例えば専門家の大多数が合意する政策であっても、それが社会の一般的な通年と異なれば、政策のプレイヤーである政治家、政策担当者、マスメディア、有権者といった人々の理解は得られず、その政策が我が国全体にとって望ましい政策であっても実行されない。
政策の決定要因を分析する際のこれまでの考え方は、(1)政策的現実の根本にあるのは経済的利害であり、思想やイデオロギーといった既得概念は経済的利害の反映に過ぎないとする立場=マルクス主義、合理的選択理論、(2)経済的利害の重要性を認めるものの、思想やイデオロギーといった既得概念の持つ役割を重視する立場の2つがある。
この二つの立場は互いに論争を続けてきた。野口・浜田論文では、この二つの二者択一を一歩進めて考察を行っている。つまり、人々のあらゆる政治行動は、客観的な利害というよりも「一つの主観的な思考枠組み=観念によって把握された利害」によって支配されているというものである。
経済政策=「既得概念」に基づく「既得権益」が政策形成において影響力を持つ。
2.「合理的選択」とは何か
(1)「既得概念」VS「既得権益」
1.でもふれたとおり、経済政策において「既得概念」と「既得権益」のどちらが重要なのかという問題に関しては、経済学者の中でも二つの相対立した見解が存在している。
「既得概念」を重視する経済学者としては、ケインズが挙げられるだろう。ケインズは『一般理論』において、「どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実務家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。・・・私は既得権益の力は思想の漸次的な浸透に比べて著しく誇張されていると思う。」と述べている。
一方でスティグラーやベッカーといったシカゴ学派の経済学者は、人々の経済的行動と全く同様に、人々の政治的行動も個人の利害、経済的利害にとって支配されており、政治家、官僚、政策当局者、圧力団体、有権者といった各政治主体は政治市場において経済的利害というインセンティブに導かれて行動している、と想定した。これは「既得権益」の重要性を支持するものである。同論文中でも記載があるが、これは下部構造としての経済が、上部構造としての政治・法律・宗教・哲学等といった人間意識を規定しているというマルクス主義の政治論に類似している。
(2)「既得権益」を重視する視点の有効性=ミクロ的基礎の存在
政治における経済的利害の規定性を重視するスティグラーらの視点は、現代の政治学において「合理的選択政治理論」と呼ばれている。そこでしばしば用いられる分析道具は、経済学で情報の非対称性下における経済主体間の委託・被委託関係を分析する枠組みとして用いられている「プリンシパル・エージェントモデル」である。
ラムザイヤーとローゼンブルースは、依頼人(プリンシパル)を有権者・国会議員とし、代理人(エージェント)を官僚と想定した上で、依頼人と代理人間の利害不一致の度合い(エージェンシー・スラック)が政治的意図を現実の政策形成に結びつける上での困難さや容易さを説明することを明らかにしている。
著者は、「合理的選択政治理論」には一定の有効性があると論じる。政治経済の分析手法としては分析対象の性質を類型化し、その類型に基づいて説明するパターナリズムが挙げられる。但し、このパターナリズムには人々の行動原理についてのミクロ的基礎(なぜ人々はある行動を選択するのか)が考慮されていない。例えば日本の政治経済を特徴づける性質を官僚主義、集団主義、利益誘導と特徴づけた上でパターナリズムに基づき説明しようとすると、「日本の政策形成が官僚主義的なのは日本の政治が官僚主導型なのだ」という同義反復に終始してしまう。問題はなぜ日本の政策形成が官僚主義的であるのか、それが政策形成に属する人々の関係においてどのように変容するのかという点だろう。この意味で「合理的選択政治理論」には有効性があるというわけである。
(3)「合理的選択」とは何だろうか
「合理的選択政治理論」では、経済的利害の合理性に基づいて政策が決定されると論じる。では「合理的選択」とはなんだろうか。「合理的選択」とはある環境条件において、人々が「合理的」と認識する選択である。勿論、人々が「合理的」な意思決定を行うといっても、人々が得ている情報や認識能力に格差があれば同じ「合理的」判断でも、その内容は異なってくるだろう。
著者はある選択を合理的と認識する上で必要な枠組み=認識モデルが「合理的選択政治理論」には欠落していると論じる。経済学における「合理的期待革命」とは、従来型の経済モデルにおいて欠落していた各経済主体の認識を「モデル整合的な認識」=合理的期待と捉えることで従来型の経済モデルの改訂を行ったわけだ。人々の「合理的行動」において情報や認識モデルが果たす役割は、政策形成に際しても重要である。又、これは既に注意深い経済学者らによって十分に認識されている。
政治的あるいは政策的選択を行う際の人々の行動は合理的である。つまり、自らの状況を改善するために人々のあらゆる選択はなされるだろう。しかし、その合理的な政治的選択は、ある経済政策がどのような帰結を自らにもたらすのかに関する人々の思考枠組み(認識モデル)に依存する。つまり、「合理的行動」とはある環境条件下で自然に導かれるものではなく、個々人の情報や、その情報をいかに認識するかという認識モデルを経由した上で導かれるものなのだ。
(4)政策選択における「認識モデル」の役割
個人の「合理的選択」においては、その個人がいかなる「認識モデル」に基づいて選択を行っているのかが経済的行動・政治的行動において決定的に重要である。但し、経済的行動と政治的行動において「認識モデル」の役割は異なる。それは、経済的行動は一個人の範囲内で影響が完結するのに対して、政治的行動は社会的な影響をもつことを意図して行われている、という点に起因する。このように見ていくと、政治的行動における「認識モデル」の役割は一個人内部で完結する経済的行動の場合よりも重要視していく必要があるだろう。
著者は政治経済学研究者たちの議論を例に挙げながら、政策形成における観念の役割を議論している。紹介されているマーク・ブライスの仮説は以下のとおりである。
(1)危機において、観念は不確実性を減少させる。
(2)不確実性を減少させることによって、観念は集団的行動と政治的連携を可能にさせる。
(3)既存の制度の異議の申し立てにおいて、観念は武器となる。
(4)既存の制度の正統性が揺らぎ始めたとき、新たな観念は新たな制度のための設計図として機能する。
(5)新たな制度が構築されつつあるとき、観念はその制度に安定性を付与する。
このブライスの仮説は、不確実性の状況下において、主体が世界に意味のある仕方で働きかけを行う際の拠り所としての「認識モデル=観念」の役割の重要性を示唆する。又、既存の秩序を崩壊に導き、新たな変革をもたらすのも、人々の観念であることを示唆する。
ラムザイヤーとローゼンブルースの分析においても依頼人と代理人の「エージェンシー・スラック」の大小が政治的成果を大きく左右すると主張されている。この「エージェンシー・スラック」の大小を決めるものは依頼人と代理人の「認識モデル=観念」の相違だろう。
「認識モデル=観念」の一致は、国際政策協調や国内政策の円滑な達成を後押しするだろう。そして国際政策協調においては「認識モデル=観念」の一致はある種の国際公共財と看做すことができるだろう。しかし、この「認識モデル=観念」の一致は、それ自体が持つ強い慣性にとって、新たな概念の導入に対しての障害物にもなりえる。なぜならこの「認識モデル=観念」の一致は、そこに依存する集団の力を誇示する一つの道具として作用するためである。