経済政策において既得権益と既得概念はどのように作用するのか(その2)

※宜しければ(その1)に引き続きご覧下さい。

3.経済政策における「対立」の意味
(1)経済政策における「対立」の意味

 「既得概念」(=認識モデル=観念)に基づく「既得権益」(=利害)が政策形成において影響力を持つという形で経済政策を捉えると、経済政策における「対立」の意味は明確となる。つまり、「観念」の相違に基づく対立と「利害」の相違に基づく対立の二つの要素が経済政策における「対立」を生み出すのだ。
 経済政策における「対立」の意味をもう少し考えてみることにしよう。まず注意すべき点は、仮に「既得概念」が社会で一致していたとしても、それが社会の「既得権益」が一致していることを保証しないという点である。これは経済政策が常に何らかの利害対立の原因になりえることからも明らかだろう。
次に注意すべき点は、「既得概念」(=認識モデル=観念)が共有されていたとしても、この「既得概念」の存在は、政策効果の「望ましさ」を規定しているわけではないことである。社会的に広く共有されている支配的な認識モデルが、科学的な意味で「正しい」モデルであるという保証は全くない。

(2)「観念」の対立
 経済政策における「対立」において「観念」の対立は重要な意味を持っている。仮に社会の構成員の情報や知識に格差が存在しないとしてみよう。その場合には社会全体に単一の「観念」が成立し、経済政策の対立は主に利害に基づくものと看做すことができる。しかし、社会の構成員の情報や知識の量や質は、個人間で大きく異なっているのが現実だろう。それは各個人の「観念」に重大な相違をもたらすことになる。
 野口・浜田論文では、現実の政策を個別に吟味した場合、それが「既得権益」と「既得概念」のどちらにより強く影響されているのかはケースバイケースだろうと述べている。重要なのは「既得概念の違いを生み出す要因は何か」という点である。野口・浜田論文では、それを「政策によってもたらされる帰結の自明性」としている。
 「政策によってもたらされる帰結の自明性」を持つ経済政策とは何だろうか。貿易政策、政府規制、公共事業といった政策はそうかもしれない。例えば、公共事業の場合、政府が投じる事業によってその事業に携わる者は恩恵を蒙る。又、その恩恵は関連する事業者にも行き渡り、さらには経済全体に恩恵が巡ることが予想されるだろう。政府規制の撤廃といった政策ならば、規制の撤廃により効率が上昇することが予想されるだろう。「政策によってもたらされる帰結の自明性」が「政策効果のわかりやすさ」をもたらし、人々の「観念」の共有化を容易にするというわけである。但し、人々の「観念」を完全に一致するというわけではなく、人々の「観念」はゆらぎを生じつつ、経済政策に作用するということになるのだろう。
 「政策によってもたらされる帰結が自明でない」場合、それは「観念」の共有化を困難なものにする。野口・浜田論文では日米経済摩擦を例にとりながら「専門家と非専門家の間の認識モデルの深刻な対立」を説明している。勿論、「専門家同士の間の認識モデルの深刻な対立」もあるだろう。その一例として、同書中の浜田論文*1も挙げられるだろう。

4.「観念」のダイナミクス
(1)「観念」と「利害」の関係

 これまでは経済政策の形成において、「既得権益」と「既得概念」が区別されたものとして議論されてきた。野口・浜田論文では、「既得権益」と「既得概念」を分けて考察するという議論に対する根本的な批判として「既得権益と無関係な既得概念があるのだろうか?」という論点にふれている。
 勿論、ある観念が社会に流布する過程において何らかの経済的利害が存在するという想定は正しいだろう。マスメディアは市場での利害に基づいて情報及び観念を提供している。観念は特定の利害集団や政府・政策当局の利益追求を容易にするためのプロパガンダとしても利用される。
 著者も述べているが、野口・浜田論文で強調されている点は「人々を突き動かしているのは必ずしも「客観的な利害」ではなく、「特定の認識モデル=観念を通じて把握された主観的な利害」に過ぎないという点である。この意味において寧ろ野口・浜田論文は「既得権益と無関係な既得概念があるのだろうか?」という批判を取り込んだものといえるだろう。そして、「客観的な利害」と「観念を通じて把握された主観的な利害」が一致するのか否かは「政策によってもたらされる帰結の自明性」に依存することは先にみたとおりである。

(2)「観念」のダイナミクス
 では「観念」は変化せず固定なのだろうか、そしてなぜ変化するのだろうか。こうした問題に対しての経済学における伝統的な取り扱いとしては、「人々の主観的判断の変更は、事前確率と新たな観察から得られた事後確率の変化を反映する」といったベイジアン的な見方が挙げられる。さらに「認知的不協和」*2の概念は、人々の「観念」がなぜ一定の慣性を持つのかを説明するだろう。そしてクーンのパラダイム変動といった概念も「新しい観念への認知的な抵抗」を説明するだろう。「観念」の変動が「科学的に正しい方向」に向かうのだと(楽観的に)考えれば、「観念」と現実との不一致が現実を適切に説明できない疑わしい「観念」(=認識モデル)の問題点を人々に認識させ、結果として「観念」の変化をもたらすことにもなるだろう。
 「観念」は一定の慣性を持つ一方で、突発的に変動することも考えられる。論文中では、M・ブライスの「均衡信念モデル」の考え方が述べられている。「均衡信念モデル」の考え方によれば、「観念」が一定の方向に社会的に収束していくのは、支配的な概念と異なる概念を保持する主観的コストが少数派になる程大きくなる場合である。そして、支配的な概念の支配力がなんらかの要因によって低下した場合には、それを保持する主観的コストが上昇し、一定の臨界点を超えることで既存の支配的観念は崩壊する。このような意味において均衡信念モデルは「ネットワーク外部性」によって特徴付けられるモデルである。

5.感想
 以上、野口・浜田論文を纏めてみたが、この論文は経済政策における知識の役割を論じた第二章と合わせて本書の核となる考え方を提供している。「最適な経済政策とは何か?」という問いへの答えを探ることも有用だが、「経済政策がどのようなプロセスを通じて実行されるのか?」、「ある経済政策がなぜ受け入れられないのか?」という点を考えるにあたり、本章の議論は有益な示唆を与えるように思われる。特に人々の合理的な判断が「観念を通じて把握された主観的な利害」に基づいて下され、観念は「認知的不協和」、「パラダイム変動」、「均衡信念モデル」等の考え方を一つの典型例として様々に変動していくと述べている点は興味を持って読んだ。
 同論文で述べられている「観念」の変化は、昨今の小泉・安倍政権における「改革なくして成長なし」の中に含まれる成長という概念と現実の間のアノマリーが福田政権に変わり地域に優しい政策を求めるという事態を生み出しているとも読める。さらに、小泉政権で強調された郵政民営化といった政策も、「郵政事業を民営化する」という言葉そのものの意味において帰結は明瞭であり、規制緩和という大きな「認識モデル」の中で理解され、経済政策として実現したと見ることもできるだろう。但し問題なのは、社会的「観念」が幾度なく繰り返された現実とのアノマリーを通じて進化(学習)してきたのかという点だ。
 もし過去の歴史の経験を踏まえた場合に誤った「観念」が社会的に認知されているとしたら、その「観念」にどのように影響を与えることができるのだろうか。我が国だけではなく他の国はどのような試みをしているのだろうか、していないのか、そして正しい「観念」を成立させるためのシステムの構築という意味で何が必要なのだろうか。「利害」対立を乗り越えることの困難さとともに「観念」の対立においても「望ましい経済政策」達成のためのハードルの高さを改めて痛感した次第である。

*1:http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20070909

*2:人々はしばしば、既存の信念と矛盾するような現実の認知を忌避する。