古典を読む意義

 先日日経BPラシックスから新訳が出たフリードマンの「資本主義と自由」の付録として野中郁次郎、竹森俊平、山岡洋一諸氏による創刊記念座談会のパンフレットがついていました。御三方の議論は含蓄あるものなのですが、経済学の古典に関して竹森先生が述べている箇所が興味深い。以下抜粋。御読みの方はどのようにお考えでしょうか?

 今はケインズ経済学というと、数式などにまとめて整理されたものを勉強する。でもそれで終わり。本当はある程度勉強した後で、原典に戻るのが一番いいと思う。原典を批判的に読むことが出来るからです

アダム・スミスにしてもリカードにしても、いま読むと迫力がある。一般的にいえば、「だれだれの定理」というように、ある経済学者の名前とくっついて一般化している概念については、原点に当たるとやはり得るものがある。なぜ、そんな議論を始めたのか問題意識がわかるからです。

面白いのは、日本語で経済自由主義っていうのかな、エコノミック・リベラリズムの論者として知られる、ナイトとハイエクフリードマンは全然考え方が違うことです。それも些細な点ではなく、根本的に違うから三人で議論したら大変でしょう。それに比べたらケインズフリードマンの違いなんて取るに足らない。ナイトに言わせれば、資本主義は道徳的根拠が腐っているから「だめ」なのです。ここはハイエクとも、フリードマンとも違う。それでも社会主義に比べればましというだけ。今おっしゃったアダム・スミスも「人間が合理的」なんて一言もいっていない。人間が非合理だというのが、そもそも議論の出発点です。その点では、ナイトやハイエクは少し近い。人間の非合理性が彼らの議論の出発点です。合理的じゃない人間がどういう風に経済を営むかというと、失敗と試行錯誤の許容される市場経済が一番ということになる。その後の標準的な経済学の流れとは考え方が全然違う。合理性の前提に立った標準的な経済学についてはこういう笑い話を使ってよくその問題が指摘される。誰か夜道で財布を落とした人がいた。ところが落とした場所ではなく、ちょっと離れた電灯があるところで財布を探している。ここは見えるけど向こうは暗くて見えないから、と言うんです。標準的な経済学の陥りがちな誤りで、見やすいところに問題があると考える。スミス、ハイエク、ナイト、ケインズといった経済学者は、見えにくいところで問題と格闘していたのに。