竹森俊平『資本主義は嫌いですか』を読む(その2)

 先週、世界を襲った金融危機は週末のG7における政府対応を好材料に株価の反転という形で始まった。尤も、米国ダウはサブプライムローン問題が喧伝されるようになった昨年中ばの14000ドル台を基点としてみれば9387ドルという水準は未だ頼りない水準であり、今後もその動向を注視してみていく必要があるだろう。先週の状況は流動性の危機という意味で本書の第二部及び第三部の内容を彷彿とさせるものがあったのだが、(その2)では本書の第二部を中心に敷衍しながら感想を書いていくことにしたい。
 第二部は2005年8月に開催されたカンザスシティー連銀主催のシンポジウムの一コマを紹介しつつ論が進められていく。周知の通り、このシンポジウムは毎年ジャクソンホールにて開催されており今年のテーマは"Maintaining Stability in a Changing Financial System"、昨年のテーマは"Housing, Housing Finance, and Monetary Policy"であり、現下の金融危機の状況や住宅市場に関する論点に対して中央銀行が注意を払っていることを裏付けている。さて、2005年のテーマは「グリーンスパンの時代:未来への教訓」("The Greenspan Era: Lessons for the Future")というものである。
 筆者が取り上げるのはこのシンポジウムの中で展開されたラグー・ラジャン教授による論文(Has Financial Development Made the World Riskier?)の内容と議論である。登場人物は報告者のラジャン、そして討論者のコーン現FRB副議長、LSE教授のヒュン・ソン・シン、一般討論ではサマーズ、S.フィッシャー、トリシェECB総裁、ブラインダーといった豪華な顔ぶれが並んでいるが、今般の金融危機に関する報道を見るかぎりでは既におなじみの顔になった感がある。以下、筆者が語るラジャン教授の論文のポイントに即しながら討論を交えつつ纏めてみよう。

1.利益追求を求める銀行とファンド
 ラジャン教授の論文のタイトルは「金融システムの発展が世界をより危険にさらしているのか?」といったものだが、ここで語られる「金融システムの発展」とは、金の貸し借りが銀行を中心とした相対取引から証券を用いての市場取引が主流になったという事実を指している。これは銀行仲介機能の消滅とも解されるが、ラジャン教授はそうではなく、証券を用いた市場取引では新たな「仲介役」が躍り出た変化と解す(仲介機能の復活)べきであると論じている。
市場取引がメインとなった金融システムに即した「仲介役」はこれまでの仲介役である銀行とは異なった性質を有している。それは安全から高収益を目指すというものである。確かに規制により主役の座を守られていた銀行は低収益に甘んじる代わりに安全という利点を持っていた。しかし新たな仲介役の代表格でもあるヘッジファンドの場合は、高い投資収益率を達成しなくては即、顧客が別のヘッジファンドに移ってしまうという恐怖がある。では、そもそも新たな仲介役が求める利益とは何か、それは一つには市場全体の変化を底流とした利益、つまり平均株価上昇によるキャピタルゲインの上昇といった利益の存在である。但しこの利益は別に新たな仲介役を必要にするという性格のものではない。だとするともう一つの利益の存在が重要になってくるわけである。つまり、発生する確率は低いけれどもリスクは高いという「テール・リスク・テイキング」を行うのである。具体的にはヘッジファンドは「債務の不履行が発覚した場合には不履行分の損失を支払う一方で債務が履行されている通常の段階ではプレミアムを受けとる」というCDSクレジット・デフォルト・スワップ)を売ることで「テール・リスク」をとるのである。
当然ながらテール・リスクが実現しない状況においては、ヘッジファンドはプレミアム分だけ利益を得ることが可能だが、確率が低いと想定していた債務不履行が多発して生じる場合には、一転してヘッジファンドは不履行分の返済に追われることになる。先にもふれたように「高い投資収益率を取らないと顧客が逃げてしまう」という危機感は群集行動と絡み合ってリスクを増幅させる。つまり同業者との比較において利益を取るか取らないかが重要なので、同業者が株を買うとなれば自分も株を買い、同業者が売るとなれば自分も売るのである。この結果として株価が乱高下し、よりリスクが拡大していくことになる。
 それでは銀行はどのような行動に出るのだろうか。確実にいえることは、銀行も市場取引の流れを利用しようとするということである。この際に銀行は自身の保有する危険資産の中でプライベート情報に依存する危険のみを自身のバランスシートに残し、その他のリスクを切り離す。自己資本は銀行にとってはコストともいえるため、無駄にコストを増やさないように銀行が抱える必然性のある危険(その銀行のみが知りうる情報に基づく資産)を残していく。とすると、銀行が有する危険は最も不透明な危険、つまりサブプライムローンの中で最もリスクの高くリターンも高い部分である「エクイティー・トランシュ」が結果として銀行の手元に残ってしまうわけである。
銀行がなぜ高リスク・高リターンの資産を持つことになるのか。これは証券化によってさらに加速される。証券化によって危険を切り分けていくことが容易になれば、銀行は自己資金を有効に活用するために自己資金の限度一杯まで危険資産を持とうとする。さらに銀行が自己のバランスシートから切り離して作るSIV(資産運用専門機関)を利用してより運用を進めるようになれば、たとえ制度上はオフ・バランスシートであったとしてもSIVが危機に陥れば「クレジット・ライン」分の資金を保証する必要がある。つまり一旦危機に陥ると、銀行は自らの有する最も危険な資産への手当てのみならず、クレジット・ライン分の流動性を供給する必要が生じるため、容易に銀行の手元の流動性が枯渇してしまう。高々数%の比重しかなかったサブプライムローンがなぜ銀行の流動性を枯渇させるような事態に繋がったのかという背景には、このように銀行自身が合理的に行動した結果としていざという時の流動性の出し手として機能せず、危機が深刻化するにつれて手元の流動性の枯渇のみが進展していくというメカニズムが働いていたことがあるのである。
 それではテール・リスクを取るという金融システムの持つ問題点はどのような形で是正することが可能なのか。ラジャンの議論は、金融機関の報酬体系がアップサイドには感応的である一方でダウンサイドには感応的でない点に着目する。ラジャンはこのような報酬体系を政府が規制すること、つまりファンドマネージャーが基準利率を超える利益を上げた場合には、成果報酬を現金ではなく金融機関の株式の形で渡し、一定期間はファンドマネージャー本人による株式売却が不可能な形とする。こうすればテール・リスクが実現した際にはそのファンドマネージャー個人が損失を被ることになるのでリスクを取ることに対するダウンサイドを報酬に反映させることができるというわけである。もしくは自己資本規制を景気感応型にするという方法もありえる。

2.金融システムの発達をどうみるか
(1)「金融システムの発達」の持つ意味

 さて、いよいよ議論は主役のラジャンからカウンターパートであるコーン副議長、そしてシン教授を交えた形に展開していく。
コーン副議長の議論は「市場と規制との関係」をどうみるかというものである。更にいえば、民間主体が自身による規制(プライベート・レギュレーション)を働かせることが出来るのか、結局のところモラルハザードの問題は是認しつつも政府の規制をうける必要があるのかという点である。当時のコーン副議長の議論は「グリーンスパン・ドクトリン」を意識したものであるため、当然ながら民間、つまりは市場の持つ自浄作用に期待し、規制緩和が公共の利益を促進するという視点にたってのものだが、サブプライム危機以降の市場の改革は著者が言うとおり市場に対する適切な安全規制を加味することという認識に立つのだろう。
 コーン副議長は、ラジャンが言う「金融システムの発達により世界がより危険になっているかどうか」という「危険」の中身を問題にする。つまり、テール・リスクをとるという「危険」の高まりと、経済システム自体が抱える危険(システミック・リスク)とを峻別して考えるべきというものであり、コーン副議長の言いたいのは、GDPやインフレ率の変動の安定化、金融資産の変動率の安定化といった「Great Moderation」下の世界ではシステミック・リスクは縮小しており、危険を徹底的に切り刻み・かつ切り離すことは「危険」を効率的に移転していることに繋がるために金融システム全体の危険の許容度の高まりを意味しているということである。
現段階の視点でみればこのコーン副議長の議論はどのように整理できるのか、著者は金融システムの持つ危険に関して、「損害額」と「許容能力」を考えることでこの議論を整理している。例えば、自動車保険の場合には自動車事故が生じるという確率は大量のデータから確実に把握されており、損害額が許容能力を超えることはありえないために危機の発生は考慮する必要がない。しかしCDSに関しては「損害額」が「許容量」を大きく超える事態が生じてしまったのである。この事態が生じた背景には、そもそも債務の不履行というリスクが生じる確率は経済状況によって異なるため、自動車保険のようにリスクが生じる確率を許容量の枠内に収めることができなかったこと、さらに損害額は一旦CDSの破綻が進むと連鎖的に拡大し金融システム自体の危機に繋がることが挙げられる。私なりに整理すれば、確かにコーン副議長の言うとおり、危険を切り離すといった金融システムの発達は危険が孕む「損害額」が市場の持つ「許容能力」を超えないかぎりは正当性を有するが、現段階で判明しているのはCDSを介した危険の処理は市場の「許容能力」を大きく超える側面を有していた、ということだろうか。

(2)流動性のジレンマと人間行動
 次に登場するのは、ヒュン・ソン・シン教授である。シン教授は流動性の持つ側面として二つのポイントを指摘する。一つ目のポイントは流動性の持つ公共財的な性格であり、ある主体が「流動性」を確保できるかどうかが、第三者に対しても経済的な影響をもたらすという点である。そして流動性が枯渇すると予想された場合には、先週の世界同時株安でも明らかなように誰もが緊急時のための流動性を確保しようとして投資活動が急速に縮小するということである。二つ目のポイントは、この流動性の公共財的性格は、異なる人の異なる行動によって生まれるということである。異なる人が市場について同様のイメージを共有しており、カネあまりだと皆が認識するなら流動性は潤沢となり投資行動は活発化する。一方で流動性が枯渇すると皆が認識するなら流動性は不足し危機が生じる。よって流動性を考えるにあたっては市場参加者の行動の相互作用が問題となってくるわけである。
異なる個人の同時的行動が悲惨な結末を生み出す例は過去の金融危機においてもみられる。1987年のブラックマンデーが生じたのは株価が下がった場合に、時価よりもわずかに低い価格で株式を空売りするという「ダイナミックヘッジング」を取引参加者が同時に行ったことだった。現在においては「時価会計」の採用が価格シグナルを通じて金融機関の行動をシンクロさせ、公共財としての流動性の拡大・縮小をより後押ししていくというメカニズムが働いている。シン教授の議論は、このような流動性の不安定化を抑えるには、価格シグナルの変動に対する反応を遅らせるというラジャン教授の提言に繋がっていく。「群集行動」が金融システムに与える問題の重要性はアジア通貨危機に絡めてトリシェ総裁も指摘している。
 この流動性に関しては、スタンレー・フィッシャーイスラエル中銀総裁が興味深い発言をする。一つ目は金融システムの発達が進むことでラジャン教授の言う危険の高まりが生じるのであれば、危機において流動性を供給する中央銀行の仕事の重要性も又高まるということである。二つ目は、危機がどこにいくかという視点である。銀行と証券の垣根がなくなった現在においては金融危機の危険は銀行に行きつくという指摘である。三つ目は金融危機が生じた場合の解決方法である。テクノロジーの発達が進んでも結局のところ危機の解決策は古典的である。つまり中央銀行が問題となった銀行を集めて救済策を決めるという手法は現代においても生きているということである。現在は、サブプライム危機が深化する過程の中で顕在化し、現在は公的資金の注入策が行われるといった段階であることは周知の事実だが、欧米において公的部門による資金注入策が早期に発表されたという事実は危機が生じる前段階での十分な議論による予行演習がなせる業だろう。

3.自由主義という「哲学論争」とプラグマティズム
 著者が評するとおり、サブプライム危機が表面化してからのFRBの対応は迅速であり、欧米諸国の政策対応がこれだけ早期に進んだことは評価すべきだろう。一方で現実の問題の進展具合を見ると、より具体的・大規模な政策をなぜ打てなかったのかという疑問も生じるところである。著者はこの点についてはサブプライム危機の規模がどの程度かが不明という意味での不確実性をまず指摘する。危機の規模が潜在的に見通せたとしても、それが実体化しなければ具体的・大規模な政策を発動するための反論は増加する。確かにアメリカの状況を見てもリーマンブラザーズ証券の破綻以降の株価下落を見据えつつ提出された金融安定化法案が一旦下院で否決されるという事態は、危機が具体的な形で顕在化しないとなかなか具体的・大規模な政策を発動することは難しいことを暗示している。具体的・大規模な政策の難しさという側面では著者はもう一つの点を話題にする。それは市場に対する規制の必要性についての反応である。ラジャン教授のような立場は規制のメニューを拡大することを意味しており決して自由主義という哲学を否定したのではない。しかし反対派の論調は会議に参加したサマーズに見られるとおり、規制強化を「アメリカの自由主義への挑戦」というようにすりかえた上で、問題から目を背けたのである。
 しかし米国の場合はバブル崩壊以降、バブル再発防止を旨としてマクロ経済政策を金縛りにし「失われた十数年」を長期化させている我が国とは異なっていると著者は論じる。それはラジャン教授の議論をあからさまに否定したサマーズが殊に金融危機が深刻化すると「豹変」したという事実からも明らかである。「豹変」が悪ではなく、状況に応じた「認識の変化」の結果として意見が収斂したとみるならば、それはプラグマティズムに則ったアメリカの強さということになる。サブプライム危機の本質を踏まえた規制の役割は、サマーズの以下の議論に集約される。つまりは「規制は、金融機関や規制当局が、将来の市場の状態を、確信をもって予見することができないという前提の下でなされるべきである」ということだ。

4.感想にかえて
 以上第二部の内容を私の理解する範囲に基づいてまとめてみた。読み進めるにつれて「資本主義は嫌いですか」というタイトルの持つ意味が徐々に分かってくるところが本書の魅力だろうか。著者が言うように、グリーンスパン・ドクトリンが全盛であったこの時期において中央銀行関係者を含む主要エコノミストが繁栄の陰に潜む危機の本質を十二分に認識していたことは驚嘆に値する。そして反論の中にも真実があり、それが経済状況の変化に伴ってどのように変化していったのかという点を見る上でも興味深いと感じた。著者の議論を簡単に纏めれば、市場取引が主体となった状況の中で利潤を重視する金融機関の姿勢が、群集心理の拡大を促し、テール・リスクを取るというビジネスモデルを生み出した。危険を取るという姿勢は、利潤重視と相まって危険を切り分け・管理するという手法の発達を促し、自己資本の範囲内で限界まで危険資産を保有するという合理的な行動をもたらす。この行動はグリーンスパンがいうように金融システムの効率化と実態経済の安定をもたらすという側面もあったのだろう。但し、危険を管理することが出来るのはその危険が孕む損害額が許容度合いを下回る場合のみである。結局、CDSという手法自体は危険の適切な把握が出来ておらず、更に金融システムの効率化・発展は損害額の拡大を促した。損害額が許容度合いを上回るという危機において、これまで安定化をもたらしていたと考えられる諸要素が市場を混乱化させる要素として作用したというわけである。
 ラジャン教授やシン教授が指摘する、市場の価格メカニズムの非効率性を志向する(少なくとも効率性を進めるのを抑える)という施策(規制)の必要性は、一方ではサブプライム危機が拡大した背景となる値付けの不確実さ・不十分さといった論点との切り分けを求めていると思う。今の段階では兎に角「今そこにある危機」を処理することが先決だが、第三部で指摘されているように危機の構造的本質が顕わになるにつれて、このような側面の検討が進められていくことになるのだろう。