西部邁「サンチョ・キホーテの旅」

 西部氏の著作に『サンチョ・キホーテの眼』という本があることを知る方は今となっては中々のニシベ通ではないだろうか。学生の頃、政治や社会に関する見方の座標軸として何度も読み、シニカルかつアイロニーを漂わせ、時にはユーモアも感じさせる文体の持つ独特の魅力に取り付かれた人間にとっては『サンチョ・キホーテの眼』は天皇制と保守の心得に関するエッセイを纏めたものとして思い出深い書籍である。ドン・キホーテと主人の傍らに寄り添うサンチョ・パンサが旭日の元で大きく描かれた表紙をめくると、確かまえがきも無いまま唐突に論説が目に飛び込んでくるというつくりであった、そして読書のお楽しみの一つでもある、あとがきすらないという簡素な作りだったと記憶している。尤も、『サンチョ・キホーテの眼』で展開されている「保守の心得」たるものは熱病から覚めた人間にとってはいささか滑稽な思いがするのも事実である。西部氏の次代を担う論客がいかにも小粒かつ軽いと感じるのは、「保守の心得」を真摯な批判なく無自覚に受け入れたこと、そして現実世界が抱える問題と切り結ぶことなくホイジンガの言う「小児病」にかかった存在として振舞ってしまっている事にも一つの原因があるのではないか。『諸君!』が過去のように読者を惹きつけることが出来なくなり、そして読者層の分化の帰結として休刊が決まったという事実を見れば、このような感想はあながち私だけのものではないようである。
 西部氏の書籍との関わりを書くと、「熱にうかされていた」学生時代を経て、自然と西部氏の書籍からは遠ざかっていたが、数年前の「ソシオエコノミクス」の再刊とともに再び何冊か目を通してみた。しかしまだまだ自分には西部氏の本と正面から向き合うには早いような気がして、再度離れるという仕儀を繰り返しているわけである。頭では氏の論理からは平静な形で向き合えるのではないか、格好良く言えば、対等な立場で本と対話できるのではないかなどと思うものの、その文体にふれると独特の魔力に魂が吸い寄せられ、自らの考えが染められてしまい、個と個の対話が不可能になるような心地がする。昨今読んだ本だと粕谷一希氏の文章も西部翁とは異なった魅惑の力を有しているように思うが、粕谷氏の文章はどこまでも飾りの無い明確さが真骨頂であるようにも思う。こちらは吸い寄せられるというよりは、寧ろ自ら吸い付く感じだろうか。西部翁の文体はそういうものではない。もしかすると瑣末な読書体験の深層にある私自身の趣向にふれる何かがあるのだかもしれない。
 長くなったが、私の西部氏の書物との出会い・思い出を書けばこんなところだ。奥様を亡くされた際の話を綴った『妻と僕』は正直「今」をどう生きるのか、格好の良い言い方をすると、自分の周りに広がる社会や経済をその構成員たる人の営みも含めて過去から未来へとつながる次元の相としてどう解釈するのかが唯一の興味と化している自分にとって、そして何よりも「死」から「生きる」ことを思う余裕はなく「生きる」という現実そのものに押しつぶされそうになっている自分にとって、まだまだ遠い世界・次元の話という思いがある。そんな折、一昨日のことだが夜中たまたま目にふれた読売新聞の広告欄でこの本の存在を知り、早速本屋にて手にとってみたというわけである。
 『サンチョ・キホーテの眼』が評論家としての多産の時期に著された論説を纏めたものであり、旭日の元での勇壮な二人の姿を投影した本であるとすれば、この『サンチョ・キホーテの旅』は、落日の中で視界の先に消えるドンキホーテとサンチョパンサの二人が描かれる奥付が印象的である。中に収められているのは西部翁が『表現者』、『北の発言』に掲載したエッセイであり、壮年期のようなギラギラと生々しい話題ではなく、日々の出来事、人々との交友を解釈するというものである。西部氏の独特の文体の持ち味が生かされるのはこういった日々の出来事を綴ったエッセイなのではないかと感じていた自分にとってはまさにうってつけの書籍である。ということで久々に昔の思いにふけることにしよう。私が対等に氏の本と向き合えるようになるのはいつのことになるのだろうか。

(追記:4/4)
 ブロガーの本棚(http://b-bookshelf.com/)に西部本・岩田先生の本・田中先生の本のエントリを掲載していただいたので、書きなぐりのものを少し修正。こちらのサイトは3/30にオープンしたみたいですが、ざっと見る限り読み応えのある(つまりは長文ということ)書評が並んでますね。多分僕の読書感想文が一番長いみたいですが・・。岩田先生の「金融危機の経済学」の感想文は二つで2万字弱ですからね(笑。興味ある本の一言紹介ではなく、じっくりどんな感想かを比較したい方には面白いサイトではないでしょうか。僕の場合は書評というよりは読書感想文ですし、知識の確認がメインというところですが・・。その点経済じゃない話題の本だと気楽に書けるかなぁ。

サンチョ・キホーテの旅

サンチョ・キホーテの旅