「特集 人間の顔をした資本主義はどこにある」を読む。

 本日発売の中央公論5月号は「特集 人間の顔をした資本主義はどこにある」と題して、西部邁柄谷行人両氏の対談(恐慌・国家・資本主義)、堂目卓生教授の「いま蘇るアダム・スミスの思想」、中村隆英・竹森俊平両教授の対談「昭和の教訓に何を学ぶ」が掲載されている。各記事とも面白かったのでその余勢を借りつつ、かつ備忘録代わりに簡単に紹介しつつ感想を述べてみることにしよう。

1.恐慌・国家・資本主義
 西部・柄谷両氏の対談(論説)を読むのは久々である。学生の頃にはご他聞にもれずこのお二方の書いたものを良く読んだりしたが、もしかすると世間的にどうしようも無い雰囲気に包まれるとこういう方々が出てくるということかもしれない。確か西部氏が書いた本で次のような一節を読んだことがある。「自分のような人間は平時には村はずれのきちがいだが、異常事態になると村長をはじめ村の連中が意見を聞きにやってくる」と。
 閑話休題。両氏はどのように今回の経済危機を見ているのだろうか。柄谷氏は現在の経済危機は1970年代から始まったアメリカの経済的没落にあると見ている。FRB議長だったグリーンスパンは目前の問題を解決させるために別のところにバブルを起こすということを繰り返した。彼がやったのは病気(バブル)を別の場所に移すことしかしていない、そして資本主義に関してグリーンスパンは一度も本気で考えたことがなかった、という。
西部氏は現代の危機に関して、貨幣・商品・資本といったものに対するフェティシズムの持つ病理的な心理・行動がアメリカを中心に世界中を覆っている、その裏の人間心理としては精神的近視症(マイオピア)になっている可能性、もしくは将来の不確実性に対して、多分政府が救済してくれるだろうという明示的か暗黙の了解の下に資本主義が暴走したのではないか、とみる。口先で「小さな政府」というデマゴギーが唱道され、それによりマーケットが反応し、米国金融機関のみならず日欧を引っ掻き回したということだ。
 この点について感想を書くと、まず柄谷氏の発言についてだが、グリーンスパンの評価としては不当である。グリーンスパンは本質的にバブルを内包する金融政策を用いて「目先の問題」と柄谷氏が言う物価安定と経済安定を目指すことが彼のミッションであり、事実その点のパフォーマンスは高かった。現在はグリーンスパンに対する否定的評価は多いが、私はこのようなグリーンスパンの功績については評価すべきだと思う。そして、グリーンスパンが資本主義に関して真剣に考えていたのも事実である。グリーンスパンが見誤ったのは、規制を適用せずに人々の行動を野放しにすることは市場の自浄作用には寄与しなかったという点ではないだろうか。やはり規制は必要であって、問題はどのような規制を適用すればよかったのかということである。
 西部氏の発言についての私の感想は、人間個人がマイオピアに陥ったというよりは、市場を通じたプレイヤーとしての個人個人がマイオピアに陥ったという側面が強いのではと思う。つまりバブルの当事者は既にバブルであることを認識していたが、競争相手である他者とのかかわりの中ではバブルに包まれた市場から撤退することは敗北を意味するので、例え個人の気分として将来を見据えた長期的視点に立っていたとしても、市場のプレイヤーとしてはマイオピアに陥ったように振舞わざるをえない。その市場内部のプレイヤーのマイオピアに働いたのが「小さな政府」というイズムであり、そのことが市場自体の持つ自己拘束的なメカニズムを強化して強大かつ広がりを持ったバブルへと導いたのではないだろうか、と思うのである。バブルという狂騒の幕が下りた段階で市場のプレイヤーとしての個人の頭をもたげるのはマイオピアではなく別の視点である。そして「小さな政府」というイズムが変わっていくということだ。
 両氏の対談で面白かったもう一つの観点は、経済に関わる重要なプレイヤーである「国家」に関しての話題である。リカードにおいて課税という形で考慮されていた国家の機能はマルクスの「資本論」では捨象された。経済の中で利害関係を同じくする人々が集まる集団・組織、プロレタリア、共同体、アソシエーション・・等々を考えるのは重要だと思う。両氏は今回の経済危機で緩やかなブロック化が加速するのではないかと見ているが、自分はこの点は半信半疑だ。通商政策の流れをみると、WTOという枠組みではなくバイのFTAを積み重ねる方向に進んでいる状況である。実はこの流れは2000年以降に加速したものであり、その動きは今回の経済危機を導いた巨大なバブルと密接に関連しているのではないだろうか。とすると、経済危機が生じたために帝国化するとか緩やかなブロック化が生じると簡単に結論づけるのではなく、緩やかなブロック化の底層に存在するものをきちんと仕分けしなくてはいけないのではないか。寧ろ、今回の経済危機の背後にある世界的な好況の背後には経済的な効率性を追求するという意味合いでFTAという形のブロック化が進んでおり、この意味でのブロック化の流れは今後も続くということである。そして、現在の経済危機によりブロック化(ある特定の国がヘゲモニーを握る、もしくはリージョンとして一体化していく)が進むのであればこのブロック化に伴う摩擦・軋轢こそ懸念すべきであり、日本は明確なビジョンを持つべきなのである。西部氏は未来世界のイメージとして、離米(米国と少しづつ明確な距離をとる)、経欧(欧州と考え方の連絡を取る)、接亜(アジアとの接近を図らざるをえない)、帰日(日本の智慧をまとめ、今に活かす)が必要だと述べるが、自分は寧ろ世界に対して離・経・接のバランスを取りながら相対することが必要なのではないか、そしてその際に求められる智慧とは、石橋湛山のような真のリベラリストの持つ思想−醒めた現実意識と民主主義的思考・行動様式なのだろう。

2.いま蘇るアダム・スミスの思想
 堂目教授といえば、アダム・スミスの思想について「道徳感情論」に焦点を当てながら「冷徹な自由放任主義者」のイメージを覆した『アダム・スミス』が多くの読者を獲得している。勿論私も本書を読んで感銘したくちなのだが、本論説はそのアダム・スミスの主張をコンパクトに纏めつつ、現在の状況において何が必要かを論じたものである。この論説は是非読むべきだ。
 極めて簡単に紹介してみよう。スミスの人間学の鍵概念は、「同感」であり、社会生活の中で他人から否認・是認を得、それにより自らも感情を持つことである。そして、そういった経験をつむことで人は自らの心の中に「公平な観察者」を持つことになる。個人としての規範原理は、世間におもねるという「弱い人の原理」、そして「胸中の公平な観察者」の判断に従う「賢人の原理」がある。スミスは、弱さと懸命さを併せ持つ個人個人を束ね、社会の秩序と反映をつかさどる立法者が有するべき原理は「賢人の原理」であり、市場を「互恵の場」であると考えた。個人の「同感」に立脚した互恵を成立させるには自らが「胸中の公平な観察者」に従うという「賢人の原理」に則る必要があるというわけだ。更に言えば、「国富論」は一国民もしくは特定の国民の豊かさではなく、諸国民の豊かさを追求するとともに、諸国民をつなぐ富の機能(貿易)を探求した書物である。
しかし18世紀のヨーロッパはスミスの言う理想状態には程遠かった。技術革新・経済発展・知識の進歩といった光に対して、格差と貧困、財政難と戦争という闇があり、そして経済は一部の市場参加者の独占と不正に支配され、「賢人の原理」の制御ではなく「弱い人の原理」に支配された経済システムであった。これをスミスは重商主義として攻撃したのである。スミスの中において「道徳感情論」は人間学として、個人の規範原理と立法者の規範原理を考察し、そして「国富論」は市場の中における個人の望ましい振る舞いが富にどのような影響をもたらすのかを論じるとともに、諸現実の重要な問題について理論枠組みから具体的な政策を提示したということだ。
 英国古典派経済学の流れはベンサム功利主義的な人間観に影響されながら、それをどう修正し、批判し、乗り越えるかといった格闘の歴史でもある。その中には明確に人間の視点があった。しかし戦後の経済学は利己的な主体という形で古典派が有していた人間のビジョンを背後におき(所与とし)、その先のメカニズムを精緻化することに精魂が傾けられた。これは経済学自体にとっては議論の拠り所となる理論を確固たるものとしたという意味で有用であったろう。しかしこれは経済学にとっても、そして経済学から得られる処方箋としての経済政策によって被害をこうむった人々にとっても不幸な事態であった。ただ、理論としては人間へのビジョンを取り戻そうという視点(行動経済学、実験経済学、神経経済学等々)の動きがあるのも事実である。「人間の顔をした経済政策」の機は熟している。
 堂目教授が言う『一見すると人間不在に見える市場経済を、感情、幸福、モラルといった人間の心の視点からとらえ、その視点になじむものに変えていくことは、多くの時間と労苦を必要とするものであるとしても、けっして不可能なことではない』という視点こそ今考えるべき話だろう。そして、為政者が「胸中の公平な観察者」に沿った政策運営が出来ないのならば、国民は自らの意思により「弱い人の原理」に支配された人間を引きずりおろす権利があり、そして「弱い人の原理」に支配された人間が幅を利かせる仕組みが現在の政策決定の枠組みならば、その仕組みを断固批判する権利・必要がある、為政者は、「胸中の公平な観察者」に沿って一国全体の利益とは何かを判断し、「弱い人の原理」に支配された大衆を退ける必要がある、ということだろう。

3.昭和の教訓に何を学ぶ
 「いま必要なのは高橋是清池田勇人か」という副題として付されているが、中村・竹森両教授による対談も中々面白い。
お二方の見立てによれば、今回の金融危機は米国の主要金融機関が倒産・整理されたことが大きい。一方で大恐慌の際には大金融機関がつぶれたのは欧州であり米国や日本は中小金融機関の倒産が相次いだ。感想として、日本の1997年の金融危機では金融機関(銀行)が全体的に不良債権を蓄積し自己資本不足に陥ったが、今回の米国が抱える危機は資本市場に生じていることが特徴であり、その意味で手探りの対応がなされていたということだ。
対談で面白かったポイントはまず井上財政の評価についてである。中村教授は旧平価解禁とほぼ同時のタイミングで生じた大恐慌という視点から井上の政策を「非常に悪いタイミング」であったという。しかし20年代後半以降マイルドなデフレが続く中で、緊縮財政を行い旧平価解禁という円高政策を行えば、大恐慌が生じなかったとしても我が国は経済停滞に陥ったのではないだろうか。竹森教授は井上が金本位制復帰を考えた理由としてBISの常任理事国入りが目的でなかったかという。つまり国際主義に基づくということである。仮にそうであれば、中村教授が言うように井上の視点は大それたものである。そして井上の視点が国際主義にとらわれたものであったとすれば、明治以降すすめられていた日本資本主義の構造的特質−つまり半封建的な土地所有に支えられた農業と資本主義の急速かつ高度な発展に支えられた工業との軋轢、大戦景気を経て成熟した金融資本が相手にせざるをえなかったのは狭歪な国内市場であったという矛盾、更に農業と工業を媒介する産業は小規模な中小企業として地域に独立に存在していたという状況−に直面した中で井上は金融資本サイドのみの矛盾を乗り越える手段として旧平価解禁を捉え、そして実行したものと見ることができるのではないだろうか。国内の構造的軋轢と誤った政策が恐慌を生み、その中で利害関係の調整を担うべき政治は機能できなかった。なぜかといえば、右翼は軍と結託して政治を打倒することに注力し、そして左翼は自らの立場の正当性を純化させることに注力し、双方が政治の無力化に加担したためである。
対談で面白かった二点目のポイントは高橋財政についての話である。高橋財政については以前纏めたとおりだが、金融政策と財政政策をコーディネートし、成功に導いたという事実は我が国の政策の中では貴重な経験である。中村教授は高橋是清財政出動を行なうことができた状況として、井上が緊縮財政を行った後でありかつ満州事変が勃発しており潜在的な使い道があった点、そして当時国内のあらゆる分野が生産余力を有していた点を指摘する。この点、現在の補正予算についての議論を考える際にも重要な点だろう。確かに財政政策(公共投資)を行うならば使い道を考える必要があり、使う道が明らかでない場合には予算を兎も角出すべきという形になりやすい。ビジョンを明確にして、使い道を決めた上で政策を行った池田勇人をもっと評価すべきという話は現代においても当てはまるのかもしれない。
そしてこの点についてはもう一つの考え方があるのではないかと思う。つまり、別に政府がカネの使い道を考える必要はなく、民間に自由に使い道を選択してもらうという方法である。深刻な落ち込みが続いている状況であれば、使い道について政府が喧々諤々の議論をするのではなく、政府はカネを渡して民間(家計・企業)に自由に使ってもらうような政策を考えた方が寧ろ良いのではないだろうか。失われた十年の我が国の経験を鑑みると、(他国は兎も角として)我が国についてはこの視点の方が正しいと私には思えるのである。