竹森俊平『資本主義は嫌いですか』を読む(その3)

 (その1)では第一部の内容を敷衍しつつ、著者の議論をもとにしてバブルを生み出す背景にある動学的効率性が満たされない状態(成長率>投資収益率)とは、成長率が金利長期金利)を上回るという事態を意味しており、さらに金融緩和策は経済を動学的効率性が満たされない状態にいざなうものであることを指摘した。(その2)では「金融システムの発展が世界をより危険にさらしているのか」というラジャンのジャクソンホールでの報告から、金融システムの発展が危機を助長するメカニズムについて著者の議論を纏めた次第である。
(その2)でもスタンレー・フィッシャーのコメントとして言及されている「流動性」について第三部では考察が進められている。もう既に御読みの方が殆どだろうが、例の如く紹介しつつ感想を纏めてみることにしたい。

1.「流動性」とは何だろうか
 流動性という概念は深遠である。『過剰流動性』、『流動的』、『市場が流動的』という場合の流動性というのは結局のところ何かという考察から第三部は始まる。著者は、カネが借りやすい、もしくは資産が売り易いという状態を指す『市場が流動的』という言葉の意味を考えていくと、現金の流通量や当座預金残高といったマネーサプライの量が問題のポイントではないのではないかと指摘する。つまり、流動的とは、マネーの量を意味するのではなく、「投資する意欲」を指すのである。
 この指摘は意味深である。我が国においてもデフレの進行に対処するために量的緩和策に踏み切ったのは記憶に新しいが、その際には大量のマネーが当座預金として積まれたわけである。当座預金残高が増えたことでマネーは増えるが、投資意欲が十分に進んだ結果マネーサプライが十分に増加してデフレから脱却できたのかといえばそうではなかったことは周知の事実である。マネーを増やすことは「投資する意欲」を増大させるきっかけとしては必要だが、必ずしもマネーが増えたからといって「投資する意欲」=流動性が上昇する訳ではないのである。

2.流動性は「時価評価」に従った「バランスシート会計」により増幅される
 では、この流動性=「投資する意欲」が上昇する要因とは何だろうか。著者はヒュン・ソン・シンとエードリアン・トビアスの研究を参照しつつ、「時価評価」に従った「バランスシート会計」が金融機関の「投資する意欲」を増大させたと述べる。(その2)でも纏めたように自己資本規制は金融機関に自己資本比率ギリギリでのレバレッジの拡大を促す。そして「時価評価」に基づく時価会計の仕組みにおいては、資産価格の上昇が即座にバランスシートに反映されるため、資産価格が上昇した場合にはバランスシートの改善に伴ってさらに資産を購入するのである。資産価格上昇に伴って更に資産を買い増せば更に資産価格は上がる。逆に資産価格下落の場合には「時価評価」では即座にバランスシートが悪化することになる。これを食い止めるには資産を売却することで債務を返済する必要があり、「時価評価」は資産価格下落を更に後押しすることになる。つまり「時価評価」に従った「バランスシート会計」が「投資する意欲」を後押し、資産価格の変動を増幅するのである。
 更に、ヒュン・ソン・シンとエードリアン・トビアスは金融機関の保有する資産とレバレッジの関係が一定ではなく、資産価格が上昇するにつれてレバレッジを拡大させるという関係を見出している。レバレッジを一定にすべく資産を買い増したり売却したりするのならば話はまだ分かるが、資産価格が高まる局面でレバレッジを上昇させる程の借入れを行うのであれば更なる資産価格高騰が生じるだろう。資産の購入・売買のメインプレイヤー足る証券会社は借入れ資金を現先(レポ)で調達していた。過剰流動性の有無を判断する指標はマネーサプライではなくて現先の出来高であるというわけである。

3.時価会計と流動性不足が「危機の連鎖」をもたらす
 この「時価会計」は投資する意欲が失われていく流動性不足の状況においては「危機の連鎖」を生み出していく。著者はペンシルヴァニア大学のアレン教授らの研究を参照しながら論を進めていく。この研究では「銀行」と「保険会社」(サブプライム危機に即して言えばモノライン等)という二つの金融機関が想定され、この二つの金融機関は「時価会計」が無かったら全く金融的なつながりが存在しなかったものとして扱われる。銀行は預金と自己資金で集めた資金(負債)を貸出し、長期資産、短期資産という三つの資産に運用することで利益を得る存在である。そして「保険会社」は企業から保険料を受け取り、それを短期資産と長期資産に投資すると想定される。
 この状況で「保険会社」に損失が生じた場合、どのような影響が生じるのだろうか。損失が発生すると、まず「保険会社」は損害の多寡に応じて短期資産及び長期資産を売却(現金化)することで債権者である保険契約者の支払いに充てることになる。短期資産及び長期資産を売却する際の相手方となるのは投資家であるが、投資家と「保険会社」とが合意する価格はまさに投資家の流動性に依存するだろう。流動性が低く、「保険会社」が保有する資産が売れなければ、資産を売却して支払いに充てたい「保険会社」はさらに提示する価格を下げざるをえない。かくして流動性が低下すればするほど、資産の売却値は低くなり、ファンダメンタルズを下回るような値に留まってしまうのである。これが流動性不足が危機をもたらす仕組みである。では、危機の連鎖はなぜ生じるのかといえば、それは時価会計の仕組みからだ。先程、「銀行」と「保険会社」には「時価会計」の枠組みが無かったら全く金融的なつながりがないと書いたが、「時価会計」においては、流動性の低下により「保険会社」が投資家との間で成立させた資産価格の低下が時価の下落という形で「銀行」のバランスシートをも襲うのである。バランスシートが悪化した「銀行」はどうするか、「銀行」は損失を計上するしかないのであり、最悪の場合には倒産の危機に陥る。すると「銀行」は資産を投売りしてでも資金を回収する必要性が生じ、そのことがさらに資産価格の下落を促すことになる、というわけである。
 金融システムを安定化させるには流動性を確保することが必要となるわけだが、これは大きく二種類に分けられる。一つは、「市場の流動性(マーケット・リクイディティー)であり、市場で証券を売却して資金を得ることの容易さである。もう一つは、「資金調達の流動性」(ファンディング・リクイディティー)であり、企業にとって短期資金を調達することの容易さである。先程の「銀行」と「保険会社」の例における「流動性」の低下とは、「資金調達の流動性」の低下が「市場の流動性」の低下を生み出しつつ、両者がスパイラル的に低下していく様として描き出されるのである。そして、流動性の低下が広範化かつ深刻化する際において時価会計の枠組みが大きな影響を与えうるのである。

4.「サブプライム危機」の教訓
 3.で見たような流動性の停滞と時価会計という制度は互いが関連しつつ資産価格を大きく下落させ、金融機関のバランスシートを悪化させ、更に危機を深化させるという影響をもたらしている。著者はこのサブプライム危機の深化の中で資産価格とファンダメンタルズとの関係について目を向ける。ここでのポイントは資産価格が下落するといっても、その水準がファンダメンタルズに留まるとは限らないという点である。ファンダメンタルズとは仮説的な理論値であり、実態経済を反映するとは言っても事後的にしか得ることが出来ない数値である。バブルの生成が「資産価格のファンダメンタルズを上回る上昇」であるのならば、バブルの崩壊が「資産価格がファンダメンタルズに収束する現象」である保証は何処にもない。3.で見たようなメカニズムを念頭におけば容易に「資産価格がファンダメンタルズを下回る下落」を引き起こすことが想像できる。そしてこの時の中央銀行の役割は明確である。資産価格がファンダメンタルズを下回る水準にまで下落する懸念が容易に予想できるからこそ、最大限の流動性を市場に提供することが中央銀行には求められるのである。
 著者は今後の「サブプライム危機」の展開について予想を行っている。つまりは、米国の家計の住宅ローン不履行問題という「一階」の構造の上に、金融機関の「経営、流動性危機」が乗っかっており、2008年3月のベアスターンズの経営危機までは「二階」の危機が主な話題であった。そして「一階」である住宅市場の話題が深刻化すると「二階」の問題も深刻化するというものである。11月の段階では、一階の問題が二階を深刻化させ、さらに実体経済という「三階」の問題にまで波及している。

5.感想にかえて
 以上、本書の第三部から第1節と第2節の話題を中心に纏めてみた。話はこの後、サブプライム危機の深化と、深化に対しての米国の対応に移っていく。4.でみた一階の問題、つまりは住宅ローン不履行の増大、住宅価格の下落という問題の深刻化を防ぐには、住宅ローンで窮地に陥った家計への救済に乗り出さざるを得ないだろうと著者は述べる。そしてそれは、資本主義の「自己責任の原則」からの逸脱を意味するわけである。この資本主義の「自己責任の原則」からの逸脱は、危機における対応策という意味では致し方のないものである。勿論懸念材料は十二分にあるのだが、米国については恐らく断固として危機に立ち向かい政策を行っていくのだろう。そして危機が終結した後に構造的な問題、つまりは金融システムの話題に話が移っていくと思われる。
 我々は1930年代の大恐慌を経験したが、その後には反動としてのブロック経済化が生じ、惹いては戦争という悪夢を見たわけである。今回の金融危機においても金融システムのあり方を抑制すべきという議論が生じており、事実それは必要なことである。但し、金融システムの在り方を抑制すべきという時、そこで規制が加えられる要素が特定個人の利害に依存しているものであってはならないだろう。
 資本主義という枠組み、そして戦後発展を続けてきた金融システムそのものを反故にすることは馬鹿げた話である。その意味で現代資本主義を支える金融システムの発達を詐欺行為のように捉えることは極論であり、成長による果実を反故にすることにもなりかねないのである。リスクを飼いならすことは容易ではないが、リスクを無くすことは「停滞」の二文字を我々に突きつけることになるのである。