昭和恐慌、およびその脱却の経験から何がいえるのか(その1)
今般の世界的な不況の突入の中にあって、昭和恐慌及びその脱却の経験から我々は何を学ぶことができるのだろうか。まず問題となるのは昭和恐慌に陥った日本においてどのような手段が講じられ、それが時間的経過を伴いながらどのように経済に影響したのかという点である。そして次の論点は、昭和恐慌からの脱却の経験から現在の経済環境を眺めた場合にどのような教訓を導くことが出来るのかという点である。以下では、いくつかの経済指標と岡田・安達・岩田(2004)*1、中村(1993)*2等を題材・参考にしながら上記論点について考えてみることにしたい。
例の如く長くなってしまったため、(その1)では昭和恐慌に至る過程とその脱却の経験について纏め、(その2)で現在の経済環境の下で昭和恐慌からの脱却の経験がどのような形で生かしうるのかを書いていくことにする。
1.1920年代の経済状況と井上財政
まず当時の日本経済の状況をみよう。図表1は1921年から40年までの実質GNP成長率(粗国民支出(市場価格、1934〜36年価格))、名目GNP成長率(粗国民支出(市場価格))、物価上昇率(GNPデフレータ変化率)(以上折れ線グラフ)、経常海外余剰(経常収支に相当)の対名目GDP比(棒グラフ)をみたものである。井上準之助が蔵相であった1929年7月から31年12月、及び高橋是清が蔵相であった1931年12月から36年2月までについては該当する年次の数値を記載している。
図表からわかる点は、1925年以降の日本経済は物価上昇率がマイナスとなっており、デフレに陥っていたという点である。1925年から29年の間の平均をとると物価上昇率は平均してマイナス2.3%であり、これは2002年から2007年までの物価上昇率平均値であるマイナス1.2%よりも深刻な水準である。1925年から1929年までの平均実質成長率は3.4%、平均名目成長率は0.9%に留まっているが、1920年代後半におけるデフレを伴った経済低迷は大戦景気に沸いた1910年代後半の状況が、1920年を境にして不況に転じ、さらにデフレを伴いつつ深化していった過程として捉えることができるだろう。
1910年代後半の経済状況を簡単にあとづけてみると以下のようになる。大戦景気に沸いた1910年代後半(1915年〜19年)の状況をみると、平均実質成長率は7.3%、平均名目成長率は27.3%、地価はこの間に178%上昇し、株価は1916年1月から19年12月の間に67.6%上昇した*3。このように第一次大戦による好況はバブル景気を生み出し、大戦の6年間で我が国は国際収支黒字国となり、10.9億円の債務国から逆に27.7億円の債権国となったのである。この大戦景気は平均で20%という急激な物価上昇をもたらしたが、第一次大戦が終結し一年が経過した1919年には貿易収支は赤字に転じ、1920年3月の株価暴落を契機として各種商品価格も暴落し、1920年恐慌が生じブームが崩壊するのである。
浜口雄幸内閣(1929年7月〜31年4月)の大蔵大臣に就任した井上準之助は以上のような経済状況に直面していた。井上の問題意識は、1920年代の経済低迷は1910年代の大戦景気が崩壊したことにより発生した不良債権や関東大震災の際に発行された震災手形の処理が進まず、景気の低迷の中で繰り返された日銀の救済融資が不採算(=ゾンビ)企業を温存させてしまうという「構造問題」の結果であるというものであった。よって経済を再生させるには、破綻企業の最終処理という財界整理策、官吏俸給の引き下げを含む緊縮財政の実行、そして「不当な水準」まで騰貴している物価水準を引き下げるべきであるという、「清算主義」が念頭におかれたのである。物価水準を引き下げるべきという井上の考えは旧平価に基づく為替レートでの金本位制の復帰へと結びつく*4が、これは清算主義・緊縮財政路線とあいまって我が国を急激なデフレを伴った不況へと進めることになった。
「井上財政」の骨子は三点に要約することができる。一つは財政支出の削減であり、中央財政歳出会計*5は1928年の18.1億円から、29年17.4億円、30年15.6億円、31年には14.8億円と4年間にわたり財政支出は削減されている。二点目は全国を遊説し、消費節約、勤倹貯蓄、輸入抑制、国産品愛用のキャンペーンを繰り広げたことである。そして第三は産業合理化運動であり、原材料費、人件費の節約を先頭にたって推進しようとしたのである。当時の金融政策についてみると、商業手形割引歩合*6は30年10月の5.11%から31年11月には6.57%に達し、日本銀行券差引流通高*7は28年の16.7億円から、29年15.9億円、30年14.1億円、31年13.1億円と減少している。
図表1からも明らかだが、1920年代後半においてマイナス2.3%程度であったGDPデフレータの変化は30年にはマイナス10.7%、31年にはマイナス9.8%と大幅に下落し、実質成長率は1.1%、0.4%と低迷することになる。
図表1:実質GNP成長率、物価上昇率(GNPデフレータ変化率)、経常収支対名目GDP比の推移(1921年〜1940年)
注:経常海外余剰、名目GNP、実質GDPは、出所資料の第1表及び第18表から参照した。
出所:大川一司編『国民所得 長期経済統計1』
図表2は1920年代後半から1930年代前半における実質GNP成長率(粗国民支出(34年〜36年価格)の対前年比:折線グラフ)と各コンポーネントの寄与度を記載しているが、井上財政の下での成長率の停滞は、個人消費の低迷、政府支出・投資の減少、経常海外余剰の赤字化といった要素が影響しているとみることができるだろう。特に30年から31年の変化をみると、個人消費及び政府支出は回復しているものの、投資及び経常海外余剰の減少が深刻化していることがわかる。
図表2 実質GNP成長率と各項目の寄与度(%、前年比)
出所:大川一司編『国民所得 長期経済統計1』第18表
2.高橋財政における二段階のレジーム転換とデフレ脱却の過程
1.で見たように、井上財政により始まった「昭和恐慌」は日本経済に甚大な影響を及ぼした。浜口・若槻と続いた憲政会内閣から代わった政友会の犬養内閣の下で蔵相となった高橋是清は、a)31年12月13日の金本位制の放棄(金輸出再禁止)と、b)32年11月25日の赤字国債の日本銀行引受けを実行した。
岡田・安達・岩田(2004)は、高橋財政の枠組みを井上財政からの二段階のレジーム転換として整理している。つまり一段階目のレジーム転換とは、a)の金本位制の放棄であり、二段階目のレジーム転換がb)赤字国債の日本銀行引き受けというわけである。以下、彼らの議論を纏めてみよう。
(1)二段階のレジーム転換
そもそもなぜ高橋財政において、岡田・安達・岩田(2004)は二段階のレジーム転換という整理を行うのだろうか。その理由は、a)金本位制の放棄により「金の足枷」から脱出した日本経済の為替レートは大幅に下落(対米為替レートで31年2.05円/ドルから32年3.56円/ドル)し、インフレ率は大幅に上昇(31年マイナス9.8%から32年マイナス1.8%)したものの、その水準は1920年代後半とほぼ同様であり、「井上財政」からのレジーム脱却が十分でなかったと解釈できるためである。事実、株価は32年2月から、卸売物価も4月から再び下落に転じ、景況感は急激に悪化し始めたのである。本格的な「井上財政」からのレジーム脱却は、b)赤字国債の日本銀行引き受けという金融緩和によってなされた。この二段階レジーム転換という主張は、岩田編『昭和恐慌の研究』中の第六章に収められている予想インフレ率の推計で具体的に論証されている。
岡田・安達・岩田(2004)でも強調されている点であるが、金本位制からの離脱と日銀の国債引き受けによる金融緩和という二つの政策による「井上財政」からのレジーム脱却は、財・サービス市場の需給逼迫の結果として生じたものではないという指摘は重要だ。デフレからの脱却は、貨幣供給量の増加に裏打ちされた金融政策の転換によりなされたというこの論文の主張に注意を払うべきだろう。
(2)デフレ脱却による経済への影響
以上の二つの政策により日本経済はデフレからの脱却を果たしたわけだが、これはどのような影響を与えたのだろうか。図表1からは実態経済への影響として、1933年から1936年の高橋財政期の物価水準は2%程度で安定し、実質GDP成長率も平均して7%程度を達成していることが見て取れる。そして、図表2の寄与度分解からはこの経済成長の達成においては個人消費と投資(粗国内固定資本形成)の力強い伸びが大きく寄与していることがわかる。そして赤字国債の日銀引き受けの影響が顕在化していない32年までは個人消費の寄与はマイナスであり、レジーム脱却により実態経済が本格的に回復する背景には、一定のラグが生じていることも見て取れるだろう。
このラグのメカニズムはどのようなものなのだろうか。その鍵は高橋財政におけるデフレ脱却が株価・銀行貸出・地価・長期金利にもたらした影響をみていく必要があるだろう。岡田・安達・岩田(2004)で展開されている論点を整理すると以下のようになる*8。図表3の論点を纏めると、二段階レジーム転換によるデフレ脱却は株価・地価といった資産価格にまず影響し、ついで生産等の実態経済に影響し、最終的にラグを伴いながら貸出機能の回復をもたらしたのである。
図表3:株価・銀行貸出・地価・長期金利への影響
株価
・株価は高橋蔵相就任時が底であり、一端下落したものの日銀の国債引き受けを契機として本格的な上昇に転じている。銀行貸出
・デフレからの脱却局面では銀行貸出は増加していない。
・貸出の増加は、株価の上昇、生産の増加に約三年程度遅れて実現している。つまりデフレからの脱却局面での生産の回復は、必ずしも貸出の増加を伴うものではなく、デフレからの脱却が実現して初めて貸出が増加した。
・これはデフレ期に法人企業が潤沢な内部資金を有しており(つまり法人企業は資金余剰主体であるということ)、デフレからの脱却に伴う生産の増加は、この内部資金を利用してなされたことを示す。地価
・高橋財政における二段階のレジーム転換は、投機的ブームで急上昇した後に崩壊へと転じた地価の下落に歯止めをかけた。長期金利
・高橋財政により生じたプラスのインフレ率が長期名目金利に全て反映されるとしたら、長期名目金利は13%程度上昇する筈だが、長期金利(証書貸付金利)は井上財政期の8%から暫時低下していき高橋財政末期には7%に達している。
・上記の理由は、レジーム転換により実物資産の購入や支出の増加が進んだこと、日銀が大規模な国債引き受けを実施したことにより国債の需給が大きく改善しつづけたことが債券価格の上昇基調を生み出し、結果として金利を引き下げたことが作用していると考えられる。
・尚、長期名目金利の低下は緩やかなものであったが、高橋財政により期待インフレ率は大幅に上昇した。このことが長期実質金利を下げ実態経済の回復に寄与したのである。
(3)財政政策の影響
金本位制からの離脱と日銀の国債引き受けによる金融緩和という二段階レジームを核とする高橋財政の枠組みにおいて財政政策はどのような役割を演じたのだろうか。図表2の実質ベースの値では民間及び公的部門の投資が区分されていないため、正確な判断が難しい。図表4は名目GNP成長率と政府支出・粗国内固定資本形成(政府分)の寄与度、そして公需(政府支出と粗国内固定資本形成(政府分)の合計値)の名目GDP比をみたものである。これをみると1929年から31年にかけての公需の寄与は特に政府投資の大幅なマイナスにより全体として名目GDP成長率に対してマイナスの寄与をもたらしていたことがわかるが、32年において政府投資の寄与度が急激に増加し、公需の名目GDP比も20%を超える規模に達している。大規模な財政支出は高橋財政の初期になされ、二つの政策が発動された時期と同時期になされているということであるが、これは国債の日銀引き受けを通じた財政と金融政策の一体化を反映している。
その後の財政支出の動きは、デフレからの脱却による安定的なインフレの実現、それに伴う実体経済の安定が確認されるにつれて緩やかに減少していく。つまり、明確なレジーム転換を行い、リフレーション政策を行う初期の時点において財政・金融政策のポリシーミックスがなされたが、実態経済の安定化が明確になった時点で財政政策のアクセルは抑えられたのである。
図表4:高橋財政期における財政支出の状況
出所:大川一司編『国民所得 長期経済統計1』第1表及び第4表
中村(1993)においても具体的に記述されているが、1935年下期以降に銀行貸出が回復した後は、財政支出の伸びは抑えられ、軍事費の膨張が国民経済の均衡を破ることを高橋は警告した。ニ・ニ六事件により高橋は凶弾に倒れるが、その後の馬場財政において軍備費の膨張が進み図表1にみるように10%以上のインフレに日本経済は悩まされることになる。
(4)資本流出規制の影響
高橋財政における金融緩和策は厳格な資本流出規制があって初めて成立したという主張がある。高橋蔵相は「資本逃避防止法」(32年7月)、「外国為替管理法」(33年5月)を施行して投機的な資本流出の規制により長期金利の上昇を抑えようとした。岡田・安達・岩田(2004)では、この資本流出規制策の実行が実際に効果をもたらしたのかは大いに疑問があるとしている。
その理由は二点挙げられているが、一つはデフレ期に法人企業の内部資金は潤沢である一方で資金需要の減少による運用難から金融機関の債券投資需要が旺盛であったこと、二つ目は、当時の内外の長期金利変動には高い連動性が認められるという点である。特に二段階レジームが実行された33年以降において連動性は高まっており、資本流出規制による人為的操作の結果として長期金利が低下したわけではないことを示唆している。
(追記 12/20 0:19)
沢山の方にご覧頂いているようでありがとうございます。ご興味のある方は是非、岩田編『昭和恐慌の研究』、東洋経済をごらん頂ければと思います。(3)財政支出の箇所につきグラフと記述を修正・追加しました。
*1:「昭和恐慌に見る政策レジームの大転換」、岩田編『昭和恐慌の研究』、東洋経済新報社
*2:『日本経済 その成長と構造【第三版】』、東京大学出版会
*3:岡田・安達・岩田(2004)表5−1を参照
*4:1929年の対米為替相場は平均で46ドル、日本の旧平価は対米49ドル7/8セントであったため、旧平価で金解禁を行うことは為替相場を約一割切り上げることを意味した。ちなみに2008年8月から11月までの名目実効為替レートの変化率は22.3%である。
*7:日本銀行券発行高から銀行券発行準備を差し引いた値、『明治以降本邦主要経済統計』を参照。
*8:詳細な過程を記した図表についてはhttp://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/h14/syutyu01_b.pdfに収められている岩田教授のプレゼンテーション資料を参照されたい。