大恐慌時の米国労働市場をどう考えるか?
池田先生がブログ*1でCole and Ohanian(1999)*2で記載されている製造業実質賃金の値を見ながら分析をされている。以下、Cole and Ohanian(1999)で纏められている実質賃金や他のデータソースも参考にしながら大恐慌時の米国の労働市場について簡単に見ていくことにしよう。
まず、引用されている製造業の実質賃金についてだが、この数値はCole and Ohanian(1999)のtable11の数値である。製造業実質賃金はHanes(1996)の名目賃金をGNPデフレータで実質化した上で、実質賃金の長期トレンド(年率1.9%上昇)分の変化を除いた上で、1929年を100とした数値である。又、全産業の実質賃金は実質ベースの雇用者報酬を総労働時間で序した値から実質賃金の長期トレンド(年率1.9%上昇)分の変化を除いた上で、1929年を100とした数値、非製造業の実質賃金は以上のようにして推計した全産業、製造業の実質賃金を用いて作成されている。
図表1はCole and Ohanian(1999)のtable11の数値(左軸)と失業率(右軸)を重ね合わせたものだが、失業率が急激に上昇していく30年から33年の局面においては、製造業の実質賃金は30年から31年にかけて一旦上昇した後に緩やかに減少しており、非製造業の実質賃金は継続して減少、全産業の実質賃金も低下していることがわかる。つまり、下落の程度には差があるものの、失業率の上昇と実質賃金の低下は同時に生じていることになる。
失業率は1933年から37年にかけて15%程度まで低下していくが、この間製造業、非製造業、産業計の実質賃金は上下動しつつ上昇していく。米国経済は1937年5月ごろから後退傾向を示し始め、1937年9月に再び深刻な恐慌状態に陥った(侘美光彦(1993)「大恐慌と1937年恐慌」『経済学論集59-1』)。この事実を反映して失業率は1937年以降上昇している。図中の実質賃金の動きをみると、製造業の実質賃金は失業率が上昇する中で1937年から38年にかけて上昇し、39年に再び失業率が下落すると今度は下落している。この間の非製造業の実質賃金の動きは製造業とは逆であり、産業形の実質賃金は製造業及び非製造業の実質賃金の動きをうけてわずかに上昇している。
以上の議論を纏めるとこうである。失業率が急上昇していく30年から33年の局面では製造業は30年から31年にかけて実質賃金は上昇したのち緩やかに低下、非製造業の実質賃金は低下している。失業率が低下する33年から37年の局面では実質賃金は概ね上昇している。失業率が再度上昇し更に下落する37年から39年の局面では、製造業の実質賃金は30年から37年の動きとは異なり失業率と同方向に動くが、非製造業の失業率に対する実質賃金の変化は同じであり、全産業の実質賃金は37年から38年の局面のみ、これまでの動きとは異なる推移を示すことになる。
よって、実質賃金と失業率を簡単に観察してみると30年から33年については実質賃金が下がったにも関わらず労働市場は十分に調整されず失業が深刻化し、33年から37年においては失業率の改善と実質賃金の上昇が同時に生じているのである。つまり、この間の労働市場は硬直的であったという見方が成り立つ。
図表1 実質賃金の動向(Cole and Ohanian(1999))と失業率の推移
出所:Cole and Ohanian(1999)及び失業率は秋元英一(1987)『ニューディールとアメリカ資本主義』、東京大学出版会を参照。
そうすると気になるのが失業率の上昇と製造業実質賃金の上昇が同時に生じている30年から31年、37年から38年の局面、そして失業率の下落と製造業実質賃金の下落とが同時に生じている34年から36年、38年から39年の局面ということになる。
Cole and Ohanian(1999)では名目賃金が掲載されていないため、他のデータソースから名目賃金、実質賃金、失業率、物価上昇率の関係をみてみよう。図表2は秋元(1987)に記載されている製造業時間あたり賃金(名目ベース)、全産業ベースの実質賃金、そしてMitchell(1975)*3におけるWPI、失業率を掲載している。尚、失業率を除くデータは1929年=100とし、製造業時間当たり賃金(名目ベース)をWPIでデフレートした製造業実質賃金(1929年=100)も計算している*4。失業率のみ右軸、その他の変数は左軸の数値である。
図表2 実質賃金(全産業、製造業時間賃金/WPI)、名目賃金(製造業時間賃金)、WPI、失業率の推移
図表2を見ていこう。WPIでデフレートした製造業実質賃金の動きは失業率が上昇する30年から33年の局面にあって、30年から31年にかけて上昇したのち、31年以降は緩やかに低下している。これはCole and Ohanian(1999)の製造業実質賃金の動きと同一である。名目賃金の動きはどうだろうか。図表2からは製造業時間賃金は30年から32年にかけて減少し、32年から33年は横ばいとなっていることがわかるが、WPIが30年から31年にかけて製造業時間賃金以上に下落しているためにWPIでデフレートした製造業実質賃金は上昇している。37年から38年の製造業実質賃金の上昇と失業率の上昇の背景を探ると、名目賃金である製造業時間賃金は横ばいで推移するのに対して、WPIは下落するため製造業実質賃金が上昇していることがわかる。
つまり、実質賃金が上昇すれば労働需要が減る(=失業率が高まる)というメカニズムの背後には、名目賃金が物価水準ほど十分に低下しないという名目賃金の下方硬直性が影響しているといえるのではないだろうか。そして、失業率低下が生じている背景には名目賃金の上昇と物価の上昇がともに生じており、結果として実質賃金の動きはほぼ横ばいとなっている。データで確認する限り雇用変化に応じて名目賃金が伸縮的に変化するというメカニズムはうまく成立していないということである。
データだけではなく先行研究も簡単に敷衍しつつさらに検討してみよう。黒田祥子・山本勲(2006)*5では、大恐慌時を含む20世紀央以前のデータを用いた先行研究の整理がなされている。彼らは日米欧について名目賃金の下方硬直性に関する先行研究を敷衍しつつ結果を総括しているが、それによると、『?20世紀央前後で比較した場合には、名目賃金は日米欧ともに20世紀央以前の方が伸縮的であり下方硬直性も存在しなかった時期があったこと、?ただし名目賃金は現代に近づくにつれて少しずつ伸縮性が減退し、硬直的となっていった可能性があること等が指摘できる』(同書176頁)とのことである。黒田・山本(2006)では大恐慌が発生した1929年から1930年にかけて米国の名目賃金の下方硬直性を検証した研究であるMitchell(1985)*6を引用しながら、1960年前後の低インフレ期と比較した場合には、1920〜30年代の名目賃金はある程度伸縮的であったという結論を紹介している。しかしながらこれは大恐慌期において「名目賃金の下方硬直性」が生じていないということを意味していない。
図表3は黒田・山本(2006)*7に掲載されている、米国インフレ率と名目賃金変化率(全産業ベース)の時系列推移だが、図表からは30年代初頭においては名目賃金変化率とインフレ率がほぼ同様となっており、名目賃金は伸縮的であったことが示唆される。しかしながら30年代初頭以降の名目賃金変化率が上昇する局面においては名目賃金変化率の伸びがインフレ率を有意に上回り、1930年代後半には名目賃金変化率はわずかに下落しプラスを維持しているもののインフレ率がマイナスに落ち込むという、名目賃金の下方硬直性が生じていることが確認できる。
図表3 米国名目賃金の下方硬直性の時系列推移
黒田・山本(2006)を参照。
図表4は黒田・山本(2006)で用いられている名目賃金の伸びと米国BEAデータから求めたGDPデフレータの伸びを1930年代に限り比較したものである。確かに31年、37年〜38年の名目賃金の下落はGDPデフレータの下落と乖離しており、失業率の上昇という労働需要の減少の中で実質賃金が高止まっていることがわかる。そして失業率が下落に転じた33年から34年にかけての実質賃金の上昇は名目賃金がGDPデフレータの伸びと比較して大きく上昇したことによることが実質賃金を押し上げていることがわかるのである。
図表4 1930年代のインフレ率と名目賃金変化率
出所:名目賃金データは、黒田・山本(2005)「なぜ名目賃金には下方硬直性があり、我が国ではその度合いが小さいのか?:行動経済学と労働市場特性・マクロ経済環境の違いによる説明」日本銀行金融研究所/金融研究/2005.12と同様のものを用いた。すなわち、Samuel H. Williamson(http://eh.net/databases/unskilledwage/)の加工データである。GDPデフレータは、米国BEAホームページにある1929年以降の名目GDPと実質GDP(2000年基準連鎖価格ベース)から作成した値を用いている。
参考までに図表5は図表2と同様に名目賃金データ、GDPデフレータでデフレートした実質賃金データ、GDPデフレータをそれぞれ1929年=100とした指数で示し、失業率と対比させてみたものである。失業率が上昇する局面で名目賃金の高止まりを通じて実質賃金が上昇していることが良く分かる。
図表5 1930年代の名目賃金(黒田・山本(2006))、GDPデフレータ、実質賃金(名目賃金/GDPデフレータ)、失業率の状況
出所:名目賃金はSamuel H. Williamson(http://eh.net/databases/unskilledwage/)の加工データ、GDPデフレータはBEAの値、失業率は秋元英一(1987)*8に掲載されている値
(追記 1/8 20:30)最後部分を追加しました。ご容赦ください。
*1:http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/762afce0f2b08c10bd909dde481a2b73
*2: http://www.minneapolisfed.org/research/QR/QR2311.pdf
*3:B.R. Mitchell,European Historical Statistics 1870-1970,1975;U.S.Department of the Commerce,Historical Statistics of the United States
*4:ちなみにBEAのサイトから1929年以降のGDPデフレータを作成することが可能であり、GDPデフレータで実質化した指数も作成してみたが結果には影響しない。
*5:『デフレ下の賃金変動 名目賃金の下方硬直性と金融政策』、東京大学出版会
*6:"Wage Flexibility:Then and Now,"Industrial Relations,24(2),pp.266-279.
*7:元となったペーパーは例えばhttp://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/2005/kk24-4-2.pdf