竹森俊平『世界デフレは三度来る(上)』を読む
本書は、過去生じた2度の世界経済の停滞期(1873年〜1896年、1929年〜1936年)、そして今般可能性を指摘されつつ幸いにも未遂に終わった三度目の経済停滞を中心に、1970年代の高インフレ期を織り交ぜつつ、19世紀後半から現代までの経済変動の中で財政、金融政策がどのように深まっていったのか、国際金融制度がどのように変遷していったのかを記述した大著である。上巻では、以上の時代の中で2度の世界経済の停滞期を扱っている。
本書の中で興味深い点の一つとしてまず挙げられるのは、我が国の金本位制確立への道のりを論じた箇所だろう。19世紀後半から第二次世界大戦までの国際通貨体制は、金本位制への各国通貨体制の収束・離脱・再収束、そして金本位制の崩壊の過程と見ることが出来る。金本位制とは各国の通貨価値をある単位数量あたりの金の価値に固定するという事である。以上から為替レートは金の市場価格の変動に伴って変化し、金の市場価格の高騰は通貨価値の上昇(デフレ)を生み、国内経済にも影響をもたらす。
我が国の場合、明治維新当時は金本位制とともに外国との貿易に際しては銀本位制が用いられており、金銀併用(バイメタリズム)の形式が取られていたが、当時の金価格は銀に対して割高であったことから国内で保有する金準備が枯渇し、実質的には国内取引には金と兌換不能な不換紙幣が流通しているという有様であった。世界的な金本位制への収束過程の中で我が国も金本位制を目指していくことになる訳だが、本書ではその過程を松方財政(国内の不換紙幣の整理(デフレ策)を進めつつ、銀との兌換に見合う紙幣発行高を確保し、銀本位制を確立した上で最終的に金本位制を目指す)と福沢・大隈案(現状の紙幣発行高を維持しつつ、不足している銀準備を外債により埋め、国内の銀本位制を確立する)との対比として描き出している。
松方財政を採用する場合には国内経済はデフレにより悪化するというリスクがある。一方で福沢・大隈案を採用すれば国内経済の落ち込みは回避されるが、海外からの借金を返済していくには将来にわたり貿易収支の黒字を達成し続けなくてはならないというリスクがある。
実際には松方財政による急激なデフレ策がとられたが、松方は的確なアナウンスメントによりデフレによる経済の縮小を最低限に抑えたとして本書では評価している。福沢・大隈案を採用した場合でも銀の価値は金に対して割安であったため、我が国は金本位国に対して円安を享受することができ、結果として輸出を伸ばすことが出来た訳だから松方の懸念は杞憂だったのかもしれない。但し松方としてみれば国内経済の停滞をアナウンスメントにより最低限に抑えこむ事のリスクより海外要因に伴うリスクの方がより高いと考えたのだろう。
このあたりの本書のくだりは小泉政権、ボルカーのインフレ退治との対比も踏まえつつ非常に興味深く述べられている。そして我が国は日清戦争の賠償金を準備金として絶妙のタイミングで金本位制に復帰していく。尚、金本位制への復帰過程における「貨幣制度調査会報告書」の提言を通じて現代の構造的デフレ論者の虚妄を斬るくだりも面白い。
興味深く読んだ2つ目の点は、本書の第二部「銀行家たち」で論じられる高橋是清、井上準之助といった我が国の政策担当者とクーン・レーブ商会、ウォーバーグ、J.P.モルガンといった米国の銀行家との繋がりである。第一次大戦後に幾度となく生じた金融危機に対して協力して取り組んだ高橋是清・井上準之助の協力関係は井上準之助が浜口雄幸とともに金解禁を断行することで終了することになる。国内の信用機能の維持の為に積極策を果断に断行していた井上準之助がなぜ金解禁を断行し、旧平価での金本位制への復帰、それに伴う急激なデフレ策をとったのか。本書ではその一つの要因として国際的な金本位制の再構築を目指す米国の銀行家達と井上の結びつきを指摘している。但し、米国の銀行家達は必ずしも旧平価での金本位制復帰を求めた訳ではなかった。このあたりの経緯についてもジェノバ会議に出席した深井英五が金本位制の復帰を思いとどまらせることを目的に「旧平価での金本位制復帰が各国に課せられた至上命題である」と本国に報告したくだり等を引用しつつ、丹念に記述されている。あくまでも「旧平価による復帰を目指すべき」という「べき論」が国内の矛盾を整理すべきという清算主義と結びついて急激なデフレ策を取らせたのだろう。この点は、現代の経済政策を考えるにあたっても示唆に富む。蛇足だが、当時行われた公務員の給与削減といった話は現在でも話題にあがっているが、それで何が良くなったのだろうか。
さて、袂を分かつ形となった高橋と井上の違いは何だったのだろうか。それは何が経済政策として重要なのかという視点なのかもしれない。井上は上で述べたような「べき論」と清算主義への傾斜が金本位制への旧平価での復帰という無謀な政策を取らせたのだろうが、高橋の軸足は常に国内経済の安定化に向けられていた。時代を先取りした総需要管理政策の実施、金融政策の手足を縛る金本位制の離脱は特筆すべきだろう。国債の日銀引き受けの弊害が言われるが、高橋は財政規律について配慮していた事も重要である。本書の中では国債残高の生産総額に対する規模を数字として挙げているが、高橋財政がなされた最後の年(1935年)の値は65.2%であるが、井上により「緊縮財政」がとられた年(1931年)の値は74.3%であった。井上が進めたデフレ策がかえって財政を悪化させたという点が小泉政権下で財政悪化が進んだ図式と重なると感じるのは私だけであろうか。
本書は著者の竹森氏が言うとおり、「紙一枚では表現できない」内容の濃さがある。それは各時代を生きた経済学者、エコノミスト、政治家、実務家が経済問題にどのように対処したのかを跡付けていく上では仕方のないことだ。但し、その事は本書を読む上での障害にはなり得ず、各時代を生きた人々の経済問題との格闘の軌跡が有機的に一つの問題、つまり国際通貨体制がはらむ問題に結節するという形で読者に統一感を持たせるという形で「内容の濃さ」(個々のエピソードの記述)と「テーマの統一感」が絶妙なバランスを保っている。そして現代の経済問題と格闘する上での教訓を探るといった、歴史を知る意味を十分に意識している。以上の意味で本書を一読する価値は十分にあるだろうし、本書は読者を物語に引きこむ力を持っているのだろう。大恐慌を扱う書物はこれまで多々刊行されている。改めて様々な書物から当時の経済問題に先人はどう立ち向かったのか、現代の経済問題にどう対処すべきなのかに思いをはせてみたいと思った次第である。